通信25-4 和声の時代についてお話いたします

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 放っておくとゆらゆらと弥次郎兵衛のように揺れ続ける頭を、とうとう枕の上にどさりと投げ出したままの日々を送った。ああ、惰眠を貪るとはまさにこの事だ。いや、この冬はいろいろあったんだ。私は避難したのさ。夢の中という安全な場所にさ。そんな私に、さあ、いつまで寝てるんだと、尻を蹴飛ばさんばかり、起きろ起きろと迫りくるのはもちろん、我が盟友石原まりさんさ。

 

 いつもなら喫茶店でだらだらとやる打ち合わせ、今回は油の切れかかった私の体調を慮っての事か電話で済ませてくれた。「ああ、やっぱりまりさんは優しいねえ」などとしみじみ噛み締める間もなく、たちまち送られてくるチラシ、おお、よおし、三年寝太郎ことこの太田も布団から這い出して、まずは眠気覚ましにと、この文章を書き始めたんだ。

 

 ちびまる子ちゃんの歌の一節、「いつだって忘れない/エジソンは偉い人/そんなの常識」。まさに「エジソンが偉い人」と同じぐらいに音楽史の常識、「古典派に続きロマン派の時代がやってくる」。果たして本当にそうなんだろうか?今回はその常識をちょいと疑ってみようと思っている。それには古典とは何か?ロマンとは何か?という根本的な問い掛けがもちろん必要なんだが、うん、なかなか手間が掛かりそうな問題ではあるが、ともあれ人生の大部分をベートーヴェン大先生の大交響曲の大解読に捧げて来たと自称する私にとって、もちろんこの作業は大いに楽しいものでもあった。

 

 ぐずぐずと寝込むぐらいだから、やはり体もぐちゃぐちゃなのだろうかね?うん、もちろんそうさ。体、今やそいつを動かすのは一苦労だ。そろそろサキソフォーンを吹くなんて事はできなくなるだろうね。まあいいけどさ。ただ折角長年この楽器に頼って来たんだ。最後に何かさちょいとやってみたくってさ。ほら、針供養ってあるじゃないか。使い古した針を蒟蒻だかに刺して川に流すやつ。

 

 うん、別に自分の愛器を蒟蒻に刺そうとは思わないが、最後に人様の前で一唸りしてみたいなあってんで、毎度石原まりさんとの会話のおまけにちょいとやらしていただいている演奏、今回は少し長めにサキソフォーンを演奏させていただく事にした。盲目の作曲家、ロドローゴが書いた「アランフェス協奏曲」、その中の有名なテーマをサキソフォーンとチェロのために編曲してみた、そいつをひとくさり、さあさ、御用とお急ぎの無い方は観ておいでってなもんさ。

 

                                                                                               2020. 12. 20.