通信27-18 酒に擦り切れた男を見た

 さあこの街での酒飲みの総大将といえば、うん、そう呼ばれるに相応しい奴がいたんだ。名前は知らない。ある日、近くの商店街を歩いていると叫び声が聞こえた。ん?と思い声の方を見遣ると、あれ、人が道に寝ているじゃないか。一杯飲み屋の前だ。飲み屋の前に大の字に寝転んだ男が、夜空に向かって力の限りに悪罵を投げつけているんだ。後で知ったのだが、そうさ、それ以降も同じような場面にたびたび出くわした。この男、行く先々の飲み屋のカウンターに居座ると誰彼構わず辺りの客に絡み、挙句の果てに店の主人や、気の荒い客から店の外に叩き出され、そこで仰向けに寝転ぶと力の限りに叫び続ける。

 

 小柄で非力な男だった。この街の北のはずれには大きな埠頭があって、昼間はそこで働いている作業員だった。力仕事についている割には弱かった。店の外に投げ出され、ころころと転がる様子を見掛けた事もあった。その男が一体何を叫んでいるのか、次第に分かってきた事だが、別に今しがた自分を叩き出したやつらを、追い出した店を罵倒している訳じゃない。多分世の中のすべてを罵っているのさ。店先でひとくさり騒いだ後、ふと立ち上がり、それから街中を、うん、細い路地から路地を渡るようにふらふらと歩き、突然思い出したように叫び声を上げる。「うおおお」だとか「があああ」だとか、ともかく意味のない声を上げ、その自分が上げた声の圧力に耐えられず尻もちをつく。その男の声が夜の闇を震わせるように路地路地に響き渡る。たとえ姿が見えなくてもその男の居場所が何となくわかるぐらいに声は響く。

 

 うん、なぜそんなに男の事を知っているのかって?実は私はサキソフォーンという楽器を吹くんだが、この男が自分の小さな体を共鳴体にして、ああ、まるで蝉だね、思い切り声を鳴らす、その技に惚れこんだのさ。何度も少し離れた背後から男の後をつけた事がある。その姿を観察するために。身を撓らせ声を鳴らす技は天下一品ってやつだ。体に声を共鳴させるその技に於いて彼は私の心の師匠って訳さ。

 

 ある夏の午後、埠頭散歩していた私は金網の向こうで現場の責任者とでもいうような男から罵倒されながら、黙々と資材を運ぶ彼を見掛けた。溢れるような獰猛さを体の奥から湧き上がらせながら叫ぶ夜の彼とは別人のようだった。俯き額から汗を滴らせながら小さな体で、彼の体にはいささか大きすぎる資材を運ぶ、ああ、この男が担いでいるのは資材なんかじゃない、こいつはすべての後悔ってやつを担いでいるんだ。

 

 それから数年後、私もこの街を去った。ある日、ふと博多駅の雑踏の中、彼とすれ違った。まだ酒を飲み続けているのだろうか、多分その時は素面だった。色褪せた黒いTシャツ、作業ズボン、なぜだかゴム長靴を履いていた。俯き、誰とも目を合わせる事もなく歩く彼の眉間の皺はより深く、資材の代わりに絶望的な孤独感をその肩に背負っているような気がした。その男見掛けたのはそれが最後だ。

 

 もちろんこの男のように身を擦り減らすような酒を飲む奴ばかりじゃない。同じく埠頭の作業員で、幸せに飲む奴らもいた。私が棲む路地とT字の形で交わる商店街。寂れかけていた商店街の、降りたシャッターの前の路石に腰掛け、人通りの少ない昼間、暖かい陽だまりの中で二人もたれ合って手に手を取り合い、微笑みながら仲良く紙パックに詰められた日本酒を啜り合う二人の中年男たちもいた。人生で初めて異性と触れ合う事を知った子供のように幸せな笑顔を見ていると、ああ、心の中から祝福したくなるってなもんさ。

 

                                                                                                  2022/ 11/ 18.