通信25-1 作曲に疲れ魚屋で魚を買う

 ここ一週間ほど、ふらふらとさ迷っていた。魔道冥府を?いやいや、まさか、そんな恐ろしいところをさ迷うのは子連れ狼こと拝一刀ぐらいさ。兵六爺こと私がさ迷うのは、せいぜいまだ完成しない妄想のような自分の作品の中さ。書いて、寝て、起きて、また書いて・・・、そんな事を小刻みに続けているうちに、しだいに夢か現か、今自身がどこにいるのかさえも曖昧になってゆく。うん、物書きにとっては良い状態さ。

 

 伝染病のお陰で生活の周期がすっかり変わり、せせこましい時間に切り刻まれる事などない空間にいると、自分が体ごと音の世界に取り込まれてゆくのがわかる。いや、何も大袈裟な事じゃない。ともかく音がよく聴こえるんだ。現実音も、自分の中でのみ鳴り続けている夢そのもののような音もね。

 

 僕はその時二十歳だった。おっと、別にポール・ニザンを気取ろうって訳じゃないぜ。ただ二十歳の頃、恋焦がれるように強く憧れ、何度もその手に掴もうとして、でもどうする事もできなかった梶井基次郎の「冬の日」に、今、ようやくこうして向かい合えるのも、自分が何がしかの自由を手に入れたからだろう。十年ほど前に仕事を辞めて以来、なかなか作曲のペースを掴む事ができなかった。注文を受けて、カレンダーに締め切りを掻き込み、その締め切りに向かって筆を進めるという行為がいつのまにか自分にとって「作曲をする」という事になってしまっていたんだ。でもガキの頃を思い出してみろよ。人に聴かせるどころか、音にしてもらえる当てすらないままに、かりかりと五線紙を埋め続けた。一体何のために?さてね?でもこの歳になってようやくその答えが分かりかけて来たような気がしているんだ。

 

 昨日はとうとうパンクしてしまった。頭が飽和状態になって、自分の中の音が少しも動かなくなってしまったんだ。そのまま書き続ける事を諦め、青い顔をしてとぼとぼと街を歩き回る。おいおい、それにしても本当に冬なのかい?もう暦は十二月なんだぜ。何なんだ、この暖かさは。そういえばまだストーブも出していない。

 

 おお、魚屋に店先で恥ずかしげもなくその肥満した体を横たえているのはクロじゃないか。確か本州の方ではメジナだとかグレだとか呼ばれている魚さ。その丸まった体を見つめる私は多分笑みを浮かべていたのだろう、やはり笑いを含んだ声で魚屋の主人が「それ二百五十円でいいよ」と言う。おお、安い。その肥満した子猫のようなクロをぶら下げて家路についた。

 

 腹を開いてみると、えっ?何だ、これは?薄いベージュ色をした塊がいきなり出て来た。いや、その塊以外、腹の中には何も入っていない。表面を触ってみると、あれ、上手く持てない、ぬるぬるとして掴めないじゃないか。うん、そうさ、これは内臓脂肪なんだ。もはや一つ一つの臓器の区別がつかないほどに脂肪がすべてを包み込んでいるんだ。こいつは海の中で一体何を食って暮らしてたんだよ。ああ、ともあれやはり詰め込み過ぎはよくないねと反省した次第だ。

 

 ちなみにその魚は三枚におろして刺身で食ってしまったが、なかなか美味かった。うん、めでたし。

 

                                                                                                             2020. 12. 3.