通信27-3 祭りを見物する

 久々に県境を越えて祭り見物に行ってきた。何より祭りを見るために県境を越えようなどという気持ちになった自分に驚いている。うん、体の内側からじわりじわりと何かが湧き出しているここ数か月だ。そうさ、人はそれを回復と言うんだ。

 

 足腰もよろついている昨今、さすがに一人では不安だってんで親切なご近所さんに手を引かれ、うん、まさにヘルパーさながらのご近所さんさ、牛にひかれて善光寺まいりってな感じだね、ともかく高速バスにうずくまるように県境を越えたんだ。

 

 降り立ったのは伊万里の街、街のそこかしこはちらほら新しくなっているが、その雰囲気はほとんど変わっちゃいない。およそ二十年振りかね。私はどういう訳かこの街の秋祭りがとても好きで、二十年ほど前は毎年見物に出かけていたんだ。

 

 大神輿と団車をぶつけあう、いわゆる喧嘩祭りと呼ばれる荒っぽい神事なんだが、二十年ほど前に不幸な事故があり、一時は廃止に追い込まれかけていた。それで私も出掛ける事をやめていたんだが、いや、もう禍々しい事はいい、ともかく祭りは復活していた。その事故の影響だろうか、かつてのように酔っ払って暴れる者もなく、整然と祭りは進んだ。

 

 二時間半ほどバスに揺られ、その地に降り立つと、ああ、光も、風の具合も、すべてかつてのままじゃないかと、目の奥が熱くなる。ほら、花曇りの空に「花」と書かれた紙が映えて。枯れた笹の枝に幾重にも重なるように縛り付けられたその花紙がかさかさと乾いた音を立てる路地をゆっくりと歩き回った。実は私にとって神輿と団車をぶつけ合うパフォーマンスは前景でしかない。本当の目当ては祭りの背景である冬に向かって沈み込むかのように移ろう秋の空気を存分に味わう事なんだ。東シナ海から続く真っ青な空が、葡萄の汁を垂らしたように紫に染まる夕方、西日を背に浮かび上がる山々が作る影、そいつをこの街では夕闇とそう呼ぶのさ、その闇にゆっくりと染まってゆく自分自身を何より恍惚に感じる。

 

 狭い街を一回り、二回り・・・、くまの姿を模した自動綿菓子製造機からエンドレスに流れるカッコウワルツの間抜けな電子音を耳にしながら、まさに与太郎のように、いや、今回はご近所さんとの二人連れ、さながら与太郎とキンボウってなところさ、さんざん歩き回り、足がすっかり棒になりかけた頃、神事が始まった。

 

 お祭り広場さながらの繁華街の真ん中にある大きな四つ角で、ゆるやかに執り行われる神事に身をゆだねるように参加した。長々とした祝詞に耳を傾け、多分地区の中学校だか小学校だかから選ばれたのだろう、賢こ顔の巫女の舞を眺め、大神輿と団車の激突を楽しんだ。後は疲れた体を荷物のようにバスの座席によこたえると、ほうら、あっというまに博多の街だ。そうだね、こうやって少しずつ回復を実感し、気力体力を取り戻し、そうしてこれから訪れるであろう老人性瘋癲暮らしの準備に備えるって訳だ。

 

                                                                                                    2022 / 10 /24.