通信27-2 老猿、山を駆ける

 別に若返りたいなんて思う訳じゃない。もう一度若い時に戻って人生をやり直してもいいぞ、と誰かに言われたとしても、いやいや、もげてしまうぐらいにぶんぶんと首を左右に振り回すだろう。ようやくゴールが見えてきたんだ。もう一度人生とかいうやつを繰り返せと言われたら絶望で真っ暗な気分になるだろうね。ああ、でもちょいとだけ若返った気分を味わうってのはなかなかいいもんだぜ。

 

 光が飛礫のように頭上に降り注ぎ始めた七月から、大気が乾き陽射しが穏やかになる十月の半ばまで、心底作曲に没頭した。若い頃みたいにさ。新作を頼まれたんだ。もうそんな事はないと思っていた。誰かに頼まれて曲を書いたのは十数年振りだ。この十数年、ただただぼんやりと行き場を失った霊魂のように自分の為だけに音符を書き続けた。それでも充実していると思っていた。いや、自分にそう言い聞かせていただけかもしれない。ともあれ今回人様の頼みに応じて仕事をするという、かつては当たり前だった状態に自分を戻す機会に再会したって訳さ。

 

 若い時のテンションが一気に戻ってきた。昔エロ本の広告とかで時折見掛けた、「若甦丸」とかいう薬の瓶を手にかざしながら仁王立ちする大天狗にでも自分がなったかのような気がした。ならばもう一度ってんでこれまた十数年振りさ、かつて新曲の下書きを取り続けた青藍山の仕事場に入ったんだ。そうして日の出から日の暮れまで、日がな一日山の中をさ迷い歩きながら新曲の構想を練った。

 

 若い頃にはひょいひょいと猿みたいに駆け回った山中が、実は意外に険しかった事に初めて気づいた。崖に沿った急な斜面に自然に出来たような獣道、そいつが思い切り足場が脆く、危うく、いつ崩れ落ちてもおかしくないような代物だった事を知り、思わず「なに」がきゅうっと縮み上がった。年甲斐もなくそんな道を歩き回っているうちに、すっかり昔の感覚が戻り、それにつれて封印していたかのような音群が自分の中からとめどなく溢れ出して来た頃、ああ、情けない、うん、滞在費が底をついたんだ。しょんぼりとした気分で博多に戻る電車に乗り込んだ。

 

 いやいや、充分だ。もう頭の中は、いや体中すべて、隅々までさ、もう音で一杯なんだ。あとは博多の黴臭い小さなアパートで、なるべく気持ちを乱さないように気を付けながら、湧き上がってきた音を五線紙に並べてゆくだけだ。そうしていつの間にか秋が訪れた頃、新曲は完成した。おっと、もう一つ小品を書かなきゃあならないんだったってんで、小品を一つ書き上げたものの勢い余ってもう一つ、うん、小品一個ってのはどうも座りが悪いのさ、という訳で「二つの小品」というタイトルの曲を捻りだしたんだ。

 

 ああ、でもやはりもう若くはないね。今はくたくたさ。どうしても疲れが取れないんだ。なんだか丸めた紙屑みたいになって布団の中で蹲る日々さ。目が痛くて堪らない。うん、でもね、やはり仕事をするっていいね。もし、またどこからか注文がきたら、ああ、すぐに立ち上がるだろうね。仕事、これこそが私の「若甦丸」って訳だ。ともあれ今回半ば棺桶に足を突っ込んだような老人に仕事を、若返りの機会をくれたО氏には心の底の底から感謝している。今はひたすら私の新作がО氏に気にいってもらえる事だけを祈るだけさ。

 

                                                                                                             2022 /10 /22.