通信24-6

 最近、暇な夜にはアマゾンの無料動画のラインアップを眺める事が多い。特に邦画。うん、何やら懐かしい映画が並んでいるんだ。今年亡くなった東陽一監督の佳作「サード」、まだ若い、いささか軽薄で無軌道な若者役が似合っていた水谷豊が主演を務めた「青春の殺人者」、森田芳光松田優作が初めて組んだ「家族ゲーム」・・・、昨日は「十九才の地図」を見つけた。

 

 かつての映画館は、今のように快適な空間ではなく、どこか猥雑な雰囲気が漂っていた。何となく埃っぽく、観ている人々もどこかぎらぎらしていて、強いエネルギーを感じた。家にテレビがない若者などざらで、映画はかけがえのない娯楽だった。

 

 正直、その「十九才の地図」という映画にはあまり感心しなかったが原作、まだ作家としてほとんど無名に近かった二十代半ばの中上健次の小説、そいつにまだ若い、いや、幼いと言った方がいいかもしれない、ともかく頭に卵の殻を乗っけたまま街を走り回っていたわれわれは大いに打ちのめされたんだ。

 

 主人公は住み込みの新聞少年。まだ明けきらない薄暗い街を駆け抜ける少年の足音と息の音、「○○〇、バツ三つ」という少年の押し殺した声。○○〇には新聞配達先の客の名前。主人公は大きな地図を作り、その地図の中に配達先の顧客の名前や電話番号を書き入れ、地図を完璧なものに仕上げようとする。そして何か気に入らない事があるとその顧客の名前の下に×印をつける。×が三つになったら処刑。処刑と言っても、いたずら電話を掛けるだけなのだが。どこにも行き場のない主人公の陰鬱な気持ちがひしひしと伝わってくる作品だ。

 

 若いわれわれは、世代は一回りも上とはいえ、やはりまだ若かった中上健次の作品に熱狂した。その熱狂は今の私にはない。だが、やはり作品に触れると胸の奥がざわざわざわとどうしようもなく騒めく。熱狂、そいつは私から消え去った訳じゃあない。ただ名前を変えて、姿を変えて、私の中に強い毒として居座っているんだ。その毒、ああ、そいつを何と呼べばいいのだろう。その時はどうしようもなく息苦しかった、ひりつくような熱狂、今となっては名指しをする事すらできないそいつに追い立てられた事を、とても幸せなものだったのだと感じる。

 

                        2020. 10. 5.