通信23-10 タケノコみたいにむずむずと

 酷い憂鬱のど真ん中にいる。昨日、ようやく新作を書き終えたんだ。その前、最後に本気で作曲をしたのはいつだっただろう。よく思い出せないが、多分2004年だか2005年だか、それぐらいだったんじゃないだろうか。それからずっとリハビリと称して小さな曲をぽつりぽつりと書き続けた。小さな曲?そうさ、山椒は小粒で・・・いやいや、少しもぴりりとしないやつ、薄ぼんやりした、この間延びした春という季節のようなやつ。果たしてこのリハビリという行為が今の自分に役立っているのかはよく分からないが、うん、ともかくひたすら筆を動かし続けたんだ。

 

 新しく書き上げたやつ、そいつの出来がどうだったかなんて到底分からないさ。ほぼ無意識の内に産み落とされた鬼子のようなそれが、一体どんな曲なのか、それが自分自身で分かるのはもっと先の事だ。

 

 昨日の明け方に脱稿して、それからぐっすりと眠り、ああ、悪夢の大行進、不吉な夢の大安売り、うなされ、寝汗をたっぷり掻いて、夕方ふらりと街へ出ると、あれ?誰もいないじゃないか。店もシャッターを下ろしていて、うううん、床屋までが休んでいるぞ。私が繭のような自分の部屋に籠っている間、世の中どうなってしまったんだい?

 

 ああ、でも昔のままだね。作曲が終わると、酷い憂鬱、いつも眠くてたまらず、布団にもぐり込みちょいとうとうとするものの、はっと目覚め、うん、悪夢ってやつが私を布団から蹴り出すんだ。そうしてちびちびと酒を舐め、また、うとうとと・・・、これが二三日も続き、ようやく正気を取り戻す、ああ、何だか懐かしい感覚だね。

 

 ともあれまた書けそうな気がしてきた。とりあえず秋に書く予定のチェロ協奏曲の内容が、すっかり変わってしまった。今回、この作品を書く事でさ。この十数年の間、自分の中に溜まり込んでいたものが、ああ、ちょいと垣間見えた気がするんだ。怖れずにそいつをそのままに音にするだけさ。今回はホルンという楽器をどうすれば活かせるのか、そればかりに心を砕き、初めて旋法というやつを使って書いてみたんだ。大いに古臭いやつを。いわば骨董品を捏造したようなものさ。かのミケランジェロ大先生は自分の作品を骨董品に見せかけるために、出来上がったばかりの大理石の天使象、そいつに動物の糞を塗りたくり、数週間地中に埋めた後、再び掘り出したそいつを、出土した紀元前の作品と偽り、貴族から金を引き出したそうだ。私自身の出来損ないを語るのに、大先生のエピソードを持ってくるなんて、あまりにおこがましい気もするが、まあ、何事にしろ遣り方ってもんがあるのさ。うん、ともかくそれでも書くという感触は大いに蘇ってきた。意欲、そいつが春先のタケノコのようにむくむくと湧いてきたって訳さ。

 

                                                                                                          2020. 4. 12.