通信23-3 新しい協奏曲に没頭する好機がやって来た

 平和とまどろみの象徴のような朝日が燦々と窓から注がれてくる。コロナといえばあらゆる良きものの代名詞だったはずだが、まったく太陽もとんだとばっちりを受けているってなもんだ。

 

 朝からぼんやりとこんな事を考えながら過ごしているのは、ああ、とうとう毎日使っているスタジオが閉鎖になったからさ。そのスタジオ、地下二階にあるうえ、全室に防音が施されているという筋金入りの密閉空間だからねえ、まあ、しょうがないとしか言えないんだろうね。

 

 まあ、ともかくこれでほとんど無収入状態になってしまった訳だ。「ほとんど」というのは、わずかな収入、雀の涙?いやいや、雀だってもう少しは大粒の涙を流すだろうさ。過去の仕事、それも随分と昔、その内容などすっかり忘れてしまったような仕事、それらの仕事の再使用料などが振り込まれてくるんだ。例えば十七円だとか、五十六円だとか、三十八円だとか・・・どんなに積もっても永遠に山になる事のない塵、そんな小金がもはや使ってもいない銀行口座に振り込まれてくるんだ。ああ、いっその事そのあたりもすっぱりと切れてしまえばむしろ清々しいってなもんだが、いやいや、その雨漏りみたいな収入、何だか私の人生の象徴みたいで微笑ましいんじゃないかね。

 

 まあ、くたばり損ないの爺の事なんか別にどうでもいいんだ。私と一緒に勉強している生徒たち、フリーの音楽家が多いんだが、彼ら彼女らもコンサートやライブの中止、延期やらで大いに痛手を受けている。それに私の生徒、うん、何やら心が弱い者が多いんだ。その手の病院にかかっている者もいる。ああ、でも何とか乗り切って欲しいね。私の胸、張り子のような空っぽの胸さ、でもそいつがいささか痛むんだ。自分の非力さにね。

 

 私自身は、ともかく今年の秋までに協奏曲、そいつが一本書けさえすれば、もう他には何もいらないと思っている。新しい協奏曲の事を考えるとじりじりと汗ばんでくるね。それまで柔らかく自分を包んでくれていた太陽の光が、たちまち錐のように肌を刺してくるような気持ちになる。呆けかけた頭がすうっと立ち上がり、若い頃に戻ったかのように働き始めるんだ。

 

 そういえばこんな私にも朗報がある。今住んでいる部屋から歩いて数分のところにショッピングモールが再開したんだ。うん、この一年ほど続いていた工事がようやく終了した。そこにあったアメリカ資本の大手ハンバーガーチェーン、二十四時間営業のМが復活したのさ。しかも一回り大きな店舗となって。このМなる店、珈琲一杯が百十円、それで夜露がしのげるのなら夢のような話だってんで、かつては家の無い者たちの溜まり場だった。 

 

 たとえ部屋を追い出されたとしても、そうさ、そこに行ってお仲間に入れていただければいいんだ。そもそも家のない暮らしをするのは初めてじゃない。若い頃、二度ほど体験している。夏の暑い夜を、ひんやりと冷房の効いた店で、五線紙に齧りつきながら過ごす、うん、悪くないね。ちなみに冬の浮浪者は寒さとの闘いだが、夏の浮浪者は虫との闘いだ。小さな虫に刺され続ける。一見大した事に思えないかもしれないが、終わる事のない虫刺されが人間の心に与えるダメージはなかなかのもんなんだぜ。何度も掻き毟るうちに皮膚がすっかり硬くなって、もう元の自分には戻れなくなってしまうような気になるんだ。

 

                                                                                                                  2020. 3. 23.