通信21-38 アメリア姫の遺言

 ガキの頃に観た「禁じられた遊び」という映画、そいつが何十年も経った今でも鮮明に記憶に残っている。南欧の強い光、その光がスクリーンから直接に溢れ出してくるような作品だった。その映像に寄り添うように流れていたギターの音、南欧古曲からセバスチャン・バッハの組曲の一節に至るまで、まるでごた混ぜのように、でもそれらの音楽は南欧の強い光の元、連作ででもあるかのようにしっかりと調和していた。その中の一曲、それが「アメリア姫の遺言」だった。

 

 強い光はその強さを極めると、最後は白と黒のモノトーンの中に収斂してしまう。その事を最初に教えられたのはこの映画だった。どこまでも強い光と影、そのコントラストと絡みついたまま「アメリア姫の遺言」という曲は私の中に腫瘍のように居座っている。

 

 果たしてアメリア姫なる人物がどういう人なのか、そもそも実在していたのか、それすら定かではないのだが、ともあれこの人物はその歌物語の中に確かに存在している。特に私のように、すぐに熱にうなされるような人間にとってはあまりに生々しく。

 

 哀しい歌物語だ。今、私が住んでいる小さなアパート、そこから歩いて数分ほどの川沿いにある濡れ衣塚という塚、そこには哀れな姫君が祀られているんだが、その姫君、父の後妻である義母にあらぬ罪を着せられ、誤解した父親から切り殺されてしまう。継母が父に吹き込んだ嘘、それは娘が夜な夜な漁師と逢引きしているというようなものだった。その証拠として娘の着物をこっそり濡らして掛けておくという事をその継母は繰り返したという。それが「濡れ衣」という言葉の語源らしい。うん、世界中のどこにでもある哀話の一つさ。それらの哀話のヴァリエーションの一つとしてこのアメリア姫の歌物語も存在しているのだろう。

 

 日々、義母は義娘に対して少しずつ毒を盛り、そうして義娘アメリアは次第に衰弱してゆく。「七人の医者に見せたけれども何の病なのかも知れず」。そうさ、それが盛られた毒による衰弱だと知っているのは毒を盛り続けた当の義母と、盛り続けられたアメリア姫のみ。「ああ、なでしこの束ゆえに私の胸は詰まります」と繰り返すアメリア姫の嘆きが、聴く者の涙を誘ったのだろう。

 

 生憎だが私は特段この悲しい歌物語に魅かれた訳じゃあない。何に魅かれたのかって?もちろんその素晴らしい旋律さ。南欧の旋律にしてはかなり狭い音域の中で歌われるこの歌。その音域の狭さこそが、アメリア姫の悲痛にリフレインされる、あたかも呟いているかのような楽句をどこまでも切ないものにしているんだ。

 

 この歌物語から歌詞を剥ぎ取って、サキソフォーンとピアノのための変奏曲として書き改めてみた。だが、さて一つの主題を変奏してゆくという事にはどういう意味があるのだろうか。一つの主題にさまざまな角度から違った光を当て、主題の持つ可能性を探ってゆくという知的な遊び。いわば覚醒としての音楽。一方で主題の内側に深く沈み込んでゆくような陶酔の音楽。「ああ、なでしこの束ゆえに私の胸は詰まります」私はアメリア姫の哀し気なリフレインに寄り添うべく、繰り返す毎に響きの密度が増してゆくようにと願いながらこの編曲に取り組んだ。

 

 十年以上も前、崖からぶら下がるように、まだぎりぎり若さにしがみ付いている頃に演奏した時の音源を上げておく。今ではすっかり沼のような年齢にはまり込んだ自分として、今秋はまた違った「アメリア姫の遺言」を皆様にご披露できると思っている。

 

                                                                                               2019. 10. 9.