通信21-40 お母様の坊やに何をあげよう?

 あれ?何か変だぞと、ここ数日頭を捻りながら過ごした。いつにもまして頭がぼんやりしている。ついでに体が重い。何故って、うん、実は心拍数が50を切っていたんだ。徐脈とかいうやつさ。それで慌てて病院に駆け込んだ。最近病院を変わったばかり、その開業間もない、新しい建材の匂いが立ち込める病院に朝から飛び込んだ。

 

 心電図を図って下さる看護師さんが、ん?この顔見覚えがあるぞ。おお、三年前に入院した時、病棟にいた看護師さんじゃあないか。おお、懐かしい。何だか同窓生にでも会ったみたいな気分になってしまった。その看護師さんから貼り付けていただいた電極が今も胸に五つ、そうさ、二十四時間心電図の測定ってやつさ。うん、それでさ、あまり興奮せずに穏やかな気持ちでこの文章を書こうと努めているところだ。

 

 帰り道にスーパーで買い物を済ませる。何だかけったいなBGMが流れてきたぞ。なんだこりゃあ?「醒めた仕草で熱く見ろ」「涙こらえて笑いなよ」、アレンジのスタイルや録音の古さからすると、そうさね、三十年以上も昔の歌謡曲じゃあないのかね。それにしても一体何て歌詞だよ。その歌を聴きながら、私は竹中直人演じる「笑いながら怒る男」というネタを思い浮かべていた。

 

 どれぐらい前の事かも忘れてしまった。ともかく私は一枚のCDを誰かに貰ったんだ。旅行のお土産だったかな?それもまったく定かではない。何しろ誰に貰ったのかすら思い出せないんだ。それなのにその音源はそれから数十年、私をしっかりと捕まえて離さない。いや、CDの現物すら失くなってしまっている。時折、運が良い時に、そのコピーが部屋の片隅から現れるんだが、またすぐに消えてしまう。ともかく私は自分の中にある記憶の音と長い事つきあっているんだ。

 

 その音源はカタロニアの教会音楽を集めたものだった。今回のコンサートの曲も、これまでいくつも繰り返し編曲し直してきたそれらの曲も、すべてこの音源から起こしたものだ。素晴らしい音源だが、そこに収録されている歌が、その街の教会に毎週日曜日に訪れる信者たちの合唱団によって歌われているものをそのまま録音したものだと知り、とてつもなく尊く、有難いもの触れているのだという実感に激しく心を打たれた。

 

 まったく意味の分からないカタロニア語と格闘する事数十年、ようやくおぼろげに歌詞が分かりかけてきたが、それらの歌詞が、普通にわれわれが思い浮かべる讃美歌とはまったく違う類のものである事を知り驚いた。素朴?そう、その歌詞はあまりに素朴な美しさに満ち満ちていて、教会で聴こえてくる歌にあるような説教臭さなど微塵もないんだ。

 

 うん、そこで歌われる数々の歌、讃美歌じゃあないものも多く混ざっている。例えば昨日、一昨日とこのブログで紹介した歌物語、労働歌(多分)、さまざまな生きる事の哀歓を、余すところなく歌い上げようとするこの音源の歌い手たちの姿に、本当の音楽というものの意味を教えられたと、そう思っている。

 

 「聖母の御子」、あまりによく知られたこの歌は、実はクリスマスに歌われる讃美歌だが、ある人によると、この「聖母の御子」というタイトルはさはどふさわしいとは言えないらしい。聖母に対する呼びかけの言葉、それが聖母を思い浮かべるにはあまりに近いし印象を与えるらしい。聖母というよりはむしろ「おかあさま」とでもいうような感じだとの事だ。

 

 「お母さまの坊やに何をあげようか?おいしいものがいいね。干しブドウにイチジク、クルミにオリーブ・・・」「マリア様の坊やに何をあげようか?僕は掛物を上げたいね。今夜はとても冷えるから・・・」。キリストもマリアも、この素朴な人々にとってはすぐそこにいる、手を伸ばせば簡単に触れる事ができるような人たちなんだろうね。

 

    十年ほど前に演奏した時の映像を上げておく。今の私はこの時のようには感じていない。今回、新たに編曲をやり直すにあたって、キーを変え、音をいささか高く設定し、そしてもっと素朴に、もっと澄み切ったものにしようと努めた。皆さまにお聴きいただけるのか本当に楽しみだ。うん、お母さまの坊やに何をあげようか?干しブドウにイチジク・・・。

 

                                                                                                    2019. 10.11.