通信28-4 昔、森安なおやという漫画家がいた

 少女漫画の事をあれこれ考えているうちにふと思い出したことがある。まだ十代の私は、上京し椎名町というところに四畳半のアパートを借りて住んでいた。池袋で夜中まで酒を飲んでも、ふらふらと歩いているといつの間にか帰り着いているという都心に近い街にも関わらず、素朴な味わいがあって、東京の私鉄沿線の街ってのはなかなかいいもんだと思いながらそこに一年ほど住んだ。アパートからほんの数分も歩くとトキワ荘という古いアパートがあったのだが、そのトキワ荘は漫画家たちの聖地という事であまりに有名だったので詳しく書く事はしない。

 

 まだ小学生だった私は、漫画家を目指していた兄の友人が、何故か私の家に残していった投稿誌を何度も繰り返し読んでいた。その雑誌は手塚治虫先生のプロダクションが作っているもので、誌名をCOMという。連載の柱には手塚先生ご自身の佳作「火の鳥」が据えられ読者の人気を集めていたが、同時に若い投稿者として諸星大二郎先生や、宮内和彦先生、早逝した楠勝平先生らの作品も掲載されており、なかなかの読み応えだった。彼らの作品の一コマ一コマが今でも鮮明に頭に浮かぶ。ちなみに「博多っ子純情」でお馴染みの長谷川法生先生が全くの無名時代に投稿されたコマ漫画を見掛けた事もあった。

 

 そのCOMという雑誌の中で、ある時からトキワ荘に関する連載が始まった。日本の漫画史に名を連ねるような錚々たる先生方が月替わりで、自分なりの視点で捉えたトキワ荘について描いてゆくのだが、その中で一つだけ異色の回があった。それは森安なおや先生が担当された回で、多分に自虐的ながらも軽やかで飄々とした筆致に強く引かれた。自身のだらしなさからトキワ荘に住めなくなり一旦は退去するものの生活が成り立たず、居候として戻ってくるのだが、寄生させてくれた親切な宿主の服や家財道具までも勝手に売り払い、仲間たちからも絶縁を言い渡され、再び出てゆくというような話だった。

 

 その時は知らなかったのだが後に「なかよし文庫」というシリーズの中の「赤い自転車」「こけし地蔵さん」という森安先生の手になる少女漫画を読む機会があり、そこに描かれたとても質の高い抒情性に強く心を打たれた。同時に質の高い何かを自分の内側に秘めるという事は、同時に破滅を引き起こすような危険を抱いているようなものだと感じた。

 

 まだ十分に若く、日本中を転々としていた私は、たまたまどこかの街でトキワ荘についてのNHKのドキュメント番組を視た。トキワ荘がいよいよ老朽化から取り壊しになるというので、久々に元の住人たちを集め同窓会を開かせようという企画だった。皆が和気あいあいと酒を飲む中、そのアパートでも若者たちのまとめ役だった寺田ヒロオ先生の姿だけが見えない。そこで映像は神奈川の自宅で一人素振りをしている寺田先生の姿に切り替わる。寺田ヒロオ先生といえば「背番号0」や「スポーツマン金太郎」のような良質な作品で子供たちを魅了した漫画家だ。私自身も熊を引き連れた金太郎と、犬、猿、雉をチームメイトとして従えた桃太郎が野球で勝負するという長閑な世界にゆったりと心を遊ばせた記憶がある。

 

 寺田先生の欠席はもちろん商業主義にどっぷりと漬かり込んでしまった少年漫画界に対する番組からの批判だ。いよっ、さすがはNHKと鼻白んだ事をはっきりと覚えている。漫画業界の主流をゆく先生方と、業界に背を向けた寺田先生。そしてもう一つの番組の柱が森安なおや先生の存在だった。とうに漫画の世界から遠ざかり、今では建築業に従事する森安先生だが、実は秘かにカムバックを思い漫画を描いている。その森安先生が数十年振りの復帰を目指し、十数年を要して書き上げた作品を持ち込むというくだりが番組の重要なエピソードとなっていた。

 

 多分集英社だったと思う、編集者が渡された原稿をぱらぱらとめくる。その時、大写しになる数枚の原稿、極めて真面目な線で丁寧にゆっくりと描かれた事が伝わってくる原稿。あらすじはというと、貧しい農家から出てきた少年が航空兵として出兵して行くというものだった。ええっ?二十代にしてすでに脳味噌に黴が生え始めていたほど古臭い感性にどっぷりと漬かり込んだ私にさえ、その原稿はあまりに古臭く見えた。まるで森安先生が大真面目な滑稽を演じているかのようだった。もちろんこれもNHKならではの商業主義批判ってな訳だろう。番組は結局、森安先生の作品は掲載されなかったという一文で締められる。

 

 それから随分と後になって、何故か友人とこのドキュメンタリーの話になった。友人がさらりという。「森安なおやの原稿持ち込みはNHKのやらせだったという噂だよ」糞っ垂れめ。以来、NHKのドキュメント番組を視る時には、ポマードでリーゼント頭をかちかちに固めるヤンキーみたいに、眉にべっとりと唾を塗り込みながら視る事にしている。

 

                                                                                                   2023. 2. 5.