通信21-41 フランスへと飛び立つうぐいすよ

 窓から外を眺めると、ああ、久々に朝霧が立っているじゃないか。窓を開け、素足でベランダに降り立ち、朝の冷え込みを直に肌で感じる。生まれ育った街ならば、うん、そこは坂の街で、高低差が激しく、複雑に入り組んだ地形をしていて、その地形が作る谷に沿うように濃い靄が漂っているその様子を思い浮かべしばらく陶然とする。

 

 いやいや、陶然となんてしている場合じゃあないぜ。もう時間がないんだ。新作を書かなきゃあならない。今、干からびて委縮したすかすかの脳味噌、その脳味噌とこれまた罅だらけでところどころに古い大根のように酢が入った頭蓋骨、その隙間には一杯に新作の響きが詰まっているんだ。でもその響き、まだ誰もが一度も紙に落とした事がないような類のものだ。つまりどう書けばそいつを、その新しい響きを譜面にできるのかがさっぱり分からない。それで朝っぱらからああでもないこうでもないと、いや、あれかこれかと、岩手の郷土玩具、あかべこみたいに頭を左右に捻りまくっているところだ。

 

 今回のコンサートのプログラム、カタロニアの古曲、その中にこれまでサキソフォーンのためには編曲しなかったものをいくつか入れている。合唱とオーケストラのためには書き直した事があるそれらの曲は、あまりにどっぷりと「歌」に漬かり過ぎていて器楽曲にするという発想が湧かなかったんだ。だがとても好きな曲だった。うん、怖気づいてちゃあいけないねってんで今回、サキソフォーンのコンサートのプログラムに押し込む事にしたその一曲がこの「うぐいす」だ。

 

 うぐいす、その旋律線はあまりに見事だ。緩やかに伸びあがるように上昇する旋律線は空に描かれた緩やかな弧、どうしても手の届く事がない憧憬をあまりに繊細に表している。届かないものに向かって差し伸べる手、そいつが音楽さ。

 

 遠い異郷に嫁いだ娘が母親に向かって望郷の念を訴える、それがこの歌だ。と言いたいところだが、歌詞を読み込んでいくうちに、あれ、何だよこの歌、うん、さすがはカタロニア古曲。高貴と卑俗のごった煮って訳だね。

 

 「フランスへと飛び立つうぐいすよ」という問い掛けに始まるこの歌詞、「どうか母さんによろしく伝えて」と続く。ところがこの後に続く言葉が「父さんには伝えなくていいわ」なんだ。どうやらこの嫁入り、父親によってすすめられたものらしい。自分をこんな僻地へ嫁がせやがってと、父親への恨み言が始まる。しかも嫁いだ先は山羊飼いとの事。

 

 「山羊のお守りが私の仕事」。ところがある日、一匹の山羊に逃げられる。その山羊を捕まえたのが一人の牛飼いだった。山羊を返してと頼む娘に牛飼いは「山羊を返す代わりに何をくれるのかい?」、「キスを一つ、それから腕で抱きしめてあげる」とそう答える娘に「そりゃ、ガキのする事だ」と返す牛飼い。それに続く「パンがあれば、ついでにチーズも欲しくなる」という言葉で唐突に歌は終わる。

 

 ううううん、何なんだこの歌。その尊さという言葉さえ浮かんでくるような旋律からは想像もつかなかった歌詞がそこには付けられていた。しばし大笑いして、それからしばらく考え込んだ。うん、コンサートの当日、お客様にお配りするパンフレットに解説を書かなきゃあならないんだ。一体何と書きゃあいいんだよ。まあ、いいさ、適当にお茶を濁して、それらしく良い感じにまとめてみようなどと不埒な事を思っている。うん、音楽なんてそんなもんさ。

 

                                                                                                   2019. 10. 15.

 

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