通信21-18 吹奏楽って その二

 私の弱い視力のせいだろうか、ステージに並ぶ楽器、うん、そいつはほとんだが金が銀の塗料が施されたものさ、その楽器から朝靄のように淡い光が立ち昇るように漂い、そいつを目にするだけで何だかうっとりするね。

 

 その小学生たちのバンド、ああ、小学生のバンドなんて初めて聴いたんだが、彼ら彼女らが奏でる柔らかい音にぼうっと心を遊ばせる。息の支えが弱いからだろう、いささかピッチが低いんだが、その低目のピッチも音をより柔らかく聴かせる理由の一つになっている。

 

 残念、小学生のバンドはこの一団体だけだった。いきなり体の大きなやつらがステージに現れた。おお、一列になって渦を描くように進み、それぞれの席に着く。へえ、なかなか立派なもんだね。普段私が見慣れているオーケストラってやつは、適当にお喋りしたり、時には客席に知り合いの顔でも見つけたのだろうか、そっちへ向かって手を振っていたり、なかなかのだらしなさをまとった楽員たちが三々五々ステージに現れる。

 

 演奏が始まると、うん、大したもんだね。ひと夏を掛けて、いやいや、まだ夏は始まったばかりだぜ、うん、ともかくかなりの時間を掛けて練習したんだろうね、随分と立派な音が、まさに鳴り響くってな感じさ、このホールはいささか大きすぎるんだが、その大きさを感じさせないぐらいに響き渡っている。

 

 それは私が心にいつも描いている音楽というものとはいささか違っていたが、何やら心が熱くなってくるのがわかった。昔、探偵ナイトスクープという番組に、集団行動をしている人々を見ると涙が止まらなくなるという女性が出てきたが、実は私にもいささかその気があるんだ。一糸乱れぬ人々の動きを見ていると、それが自衛隊の行進であろうと、北朝鮮マスゲームであろうとも、鼻の奥がつんと熱くなってしまう。

 

 目の前に一心不乱に一つの演奏に取り組んでいる高校生の姿を見ると、それだけで何だか心ってやつが負けてしまう気がするね。次々と流れてくる旋律にも、コードにも、リズムにもまったく共感できないんだが、うん、それはあまりも素朴すぎて時折は幼稚という言葉が浮かぶぐらいだった、それでも高校生たちの真剣な姿勢に大いに唸らされた。

 

 結局、小学校を一つ、高校を三つ、それだけを聴いてホールを出た。演奏されている作品に馴染めないんだ。パッチワークのように継ぎはぎされた表面的な効果。そこに並んだ作品を一言でいうとそんな感じさ。コンクールでは一団体につき課題曲と自由曲という二つの曲が演奏されるんだか、三四分ほどの課題曲と十分足らずの自由曲が並べられる。うん、この十分足らずってのが難しいんだよね。私自身、それぐらいの長さの曲を依頼されると頭を抱えてしまう。音楽には覚醒と陶酔の二つの面があって、一二分でさっと駆け抜ける覚醒、数十分を使って描く陶酔、そのどちらでもない音楽を書くのは実はいささか難しいんだ。それで十分ぐらいの曲となると、どうしても継ぎはぎ感なある曲になってしまうってな訳さ。

 

 薄暗いホールを出ると、うん、外は相変わらずの夏の光と蝉の声さ。炎天下の下、あれ、私は一体どこで何をしていたんだろうかと不思議な気持ちを味わった。多分吹奏楽ってものと付き合うのもそろそろ最後じゃあないだろうか。ついでに多くの吹奏楽曲、それが子供たちの情操教育に役立っているとはどうしても思えない、明日はそんな曲についてちょいと憎まれ口でも書いてみようかねえなどと思っている。

 

                                                                                                             2019. 8. 5.