通信21-19 吹奏楽って その三

 吹奏楽のコンクールが近づく七月になると、コンクールで演奏される曲の総譜が送られてくるという事がこの数年続いている。知り合いが勤める高校の吹奏楽部からだ。そこで慌てて総譜を頭に詰め込み、その詰め込まれた音符が、鼻の穴や耳の穴からぽろぽろと零れ落ちないように、そろりそろりと摺り足で学校に向かう。

 

 高校生と交わるのは大いに楽しみだったが、送られてきた総譜を頭に詰め込むのにはいささか抵抗があった。うん、あまり嬉しくないような内容の作品ばかりだったんだ。何だか雑に書き飛ばされたという印象を受ける音符が並んでいた。ともかく一つ一つのフレーズが短いんだ。一つの主題が現れたかと思うと、数十秒もしないうちにもう場面転換。ともかく落ち着きがない。まるで何かが根付く事を拒否しているかのような音楽だとも思った。煽情的な短い刺激が果てしなく並んでいるかのような音楽。これから音楽ってものがどういうものかを学び始める子供たちにはあまり聴かせたくないと思えるような音楽さ。何だか安っぽいテレビドラマでも見ているような気分になるね。

 

 これは素人さんが書いたんじゃあないだろうかと思わせるような作品にも度々出会った。いや、思わせるようなじゃあない、実際に素人さんが書いたものだった。コンクールの為の課題曲、それは一般から公募するらしい。今はコンピューターなどの普及で、独学でも作曲が学べるような下地が世の中にできている。それでもやはり職人的な修行をやった事がない素人さんが書いたものには、ちょいとした響きの濁りや、音の進行の歪みがちょくちょく見当たるんだ。公募自体は悪い事ではないと思うが、最後に確実な技を持った職人がアンカーを務めるべきじゃないだろうか。だって、初めて音楽と取り組むような子供たちが演奏する為の曲なんだぜ。

 

 作曲家たちが自ら楽しんで曲を書いている。うん、それはよく伝わってくるんだ。自身がまずは楽しんで興味がある事を書く、もちろんそれが物を創るって事の原点さ。ただ、そこに他者の目線が欠けているんだ。作品に他者の目線を入れる、それは他人に阿る事とは全く違う。阿り、ああ、それは感じるね。こうすれば相手が喜ぶだろうとか、いささか行儀の悪い言葉を使うなら「うけ」を意識しているって訳さ。でも阿るってのは、物を創る上ではなかなか危険な行為なんだぜ。作り手と受け手が、互いに足を引っ張り合いながら沼に沈んでゆくようなものさ。冷徹な第三者の目線、何より必要なのはそいつなんだ。

 

 ともあれこの吹奏楽の世界、まだまだ歴史が浅いと言って良いんじゃないだろうか。特に日本の吹奏楽ってのは学校のクラブ活動と共に成長してきたらしい。高校野球連盟が大いなる利権と絡みついているように、吹奏楽の世界も随分と怪しい話に溢れているんだとその筋に詳しい人々から聞く事もしばしばさ。もし、この吹奏楽ってもんが学校教育の場を土台に花開くものなら、ますます私とは無関係だが、うん、それでも若い人々が心から音楽を楽しむようになれば、遠くからその様子を覗き見ていたいと思っているんだ。

 

                              2019. 8. 6.