通信21-6 海辺の街へゆく

 先月の事だったっけ、昔の弟子から、音大を受験する高校生三人に音楽理論をちょちょいのちょいと仕込んでやってくれと頼まれたのは。実はその続きをまたやってくれないかってんで、昨日はまたまた県境を越えて、高校生相手にちょいとお喋りをしてきた。

 

 うん、意外だった。巨大な蝦蟇の背中に乗り、口には巻物を咥えた爺が、ちちんぷいぷいと怪しげな呪文を唱えると、たちまち辺りにはどろろどろろと白煙が立ち昇り・・・。音楽理論のレッスンなんてそんな胡散臭いものだと感じているだろうねえと、生徒たちの虚ろな表情に背を向け、いただいたばかりのギャラを懐に捻じ込むと、逃げるように慌てて駅へと向かったのが先月の半ば。音楽理論なんてもう懲り懲りだろうねと思っていたところ、続きをやって欲しいと高校生から直々に電話が掛かってきて、私は驚き、くるくると目ん玉を回したんだ。

 

 ともあれ、率直な質問が、まるで野球でいう千本ノックのようにばしばしと飛んできて、ああ、もう、くたくたになってしまった。いや、それじゃいけない。レッスンってのは、こちらが相手をくたくたにさせなきゃあならないんだ。そもそも何故、和音ってものができたのか?何故、歌を歌うと心が揺らぐのか?何故?何故?何故?うん、どれも良い質問だねえ。一見役に立ちそうにもない疑問の中に、大切なものがたくさん隠れているんだぜ。ああ、でもどんどん受験が遠ざかってゆく。

 

 結局、三人の高校生の親御さん方が迎えに来て下さるぐらいの遅い時間まで与太話は続き、終電を過ごした私は駅前のホテルに泊まる事になったんだ。うん、それもいいね。この街で夜を過ごすのは何年振りだろう。貰ったばかりのギャラをポケットに突っ込んで、夜の繁華街に潜り込んだ。

 

 この街で最後に飲んだのは何年前だっただろうか?そうだ、たまたま当てもなくふらふらとこの街にやって来た私は、ちょうどツアーで九州を回っていた在京オーケストラの団員たちと鉢合わせたんだ。「おお、なんと懐かしい」などと互いに肩を叩き合っていたら、昔一緒に仕事をした事があるヴァイオリニストの一人が、「やっぱりこの街にいたのか?」と言う。えっ?どういう事。「あんた、九州で陶芸の仕事をしているって噂に聞いていたよ」と真面目な顔で言うんだ。ああ、確かにこの街は窯元がいくつもあるってんで有名だが、それは根も葉もない嘘ってやつだ。はあ?と私が驚いた顔をすると、横からまた別の団員が「いや、私は神戸の中華街で肉まんを売っているって聞いたよ」とぬかす。くそ、一体どんな噂が広まっているんだ。うん、音楽の世界ってのは、とにかく人を面白がらせるためならどんな法螺話だって罷り通るところなんだ。

 

 うん、城も武家屋敷も残っているような古い街さ。夜は静かで暗い。街灯も少なく、ひんやりとした闇に包まれながら街中を歩く。秋の頃に来るならば、闇の中からふわりと稽古中の祭囃子の笛や太鼓が聴こえてくるような不思議な街だ。

 

 蟻の巣のように縦横に伸びた細い路地に沿って小さな飲み屋が並ぶ区域へ足を運んでみた。街一番の繁華街から、微かに下るように伸びている小路がその区域への入り口だ。そこへ足を一歩踏み入れる、その瞬間が好きなんだ。どこか知らない世界へ迷い込んでゆくような気分になる。

 

 小さな祠の前を歩く。その祠の廻りは何本かの木が植わっていて、ちょいとした繁みのようになっていた。祠の前で抱き合っていた男女が、息をひそめ、私が通り過ぎるのを待っていた。通り過ぎると、背後でくすくすと笑う女の声が聞こえた。

 

 その小路の一番端、うん、どんづまりってやつさ、そこにある小料理屋の看板には見覚えがあった。引き戸を開け中に入ると、記憶の頁をめくるように初老の女主人が私の顔をじっと見ている。女主人は、かろうじて私の事を覚えていた。もう、十年以上も前さ、この街に部屋を借りてオーケストラのための新作を書いた時、毎日この店に通ったんだ。

 

 昔の記憶をもてあそぶように引っ張り出し、それを肴に閉店まで居座った。店を出ると何だか急に淋しくなり海へ向かう。タールのように濃く深い海の向こうに島が見える。その島に渡り、一体何曲分の下書きをとっただろうか。一周するのに一時間もかからないその島は、見る方向によって、打ち寄せる波の強さも、形も、色も、すべてが恐ろしく違うんだ。しばらく浜に腰掛けて、コンビニで買ってきたカップ酒を呷った。

 

 ああ、この話、おちが無いじゃないか。ここで犬に追いかけられたり、ホテルで寝過ごして電車に乗り遅れたり、なにかろくでもない目に遭う事ができればよかったんだが。うん、まあたまにはそんな日もあるさ。ホテルを出ると雨が降っていた。ようやく梅雨入りらしい。

 

                                                                                                      2019.6.27.