通信20-23 おフランス帰りと付き合うなら

 今年のゴールデンウィーク、うん、しんみりした事が一つあった。一年半ほど前まで一緒に作曲の勉強をしていた女の子が、久々に会いに来てくれたんだ。ちょいとませくれてはいるが、根は可愛らしい、そして作曲のセンスがとても良い女の子だ。今はもう私の元へは通って来ていない。何故かというと、単身上京したんだ。今は親戚の家に下宿して、東京の中学校に通っている。本人は高校を卒業するまでは福岡に居たいと言っていたんだが、彼女が志望する大学、うん、ともかく古臭い学校さ、そこに行くには、今のうちからその大学の教授のそばにいる方が圧倒的に有利なんだ。音楽系の学校ってのは、入学してから卒業するまで、ほとんど教授と一対一で向き合う事になる。月に一度か二度の割合で東京へ通っている子供もざらだ。でもまあ、親戚が東京にいるというのなら、いっその事そっちで暮らした方が経済的にも楽だというので、泣く泣く上京したんだ。


 もちろん東京の大先生を紹介したのは私さ。私自身とは随分折り合いが悪かった大先生、最後は喧嘩別れみたいになってしまった、そんな大先生が、私の弟子を引き受けてくれるだろうか。駄目もとってな感じでお願いしてみたら、ともかく一度会ってくれるという。その結果、弟子になる事を許可して貰えたんだから、やはりその子の才能はなかなかのもんだという事になるんだろうね。


 上京する直前の彼女、ああ、見ていて切なかったね。これから売り飛ばされる子牛みたいにしょんぼりしているんだ。ドナドナとかいう歌に出てくる子牛みたいにさ。その彼女、うん、仮にМちゃんとしておこう、時折手紙をくれる。上京したばかりのある日の手紙に、先生のブログをいつも楽しみに読んでいるから、今度、先生が私ぐらいの歳の頃、何をしていたのか、どんな勉強をしていたのか書いてね、と認められていた。先生とは一応、この私の事だ。うん、分かったとだけ返事をしたまま放置していたら、数か月後に怒りの手紙が来たが、怒りの手紙の割には便箋の端っこでクマのプーさんが嬉しそうに蜂蜜を舐めていた。ん?クマのプーさん?あれ、そういえばもしかして二三日前に私の夢に突然出てきて、訳も分からず怒っていた少女は君の化身だったのかい?


 ともあれ私は、一番気になっている事、大先生とはうまくいっているのか、まずはそいつ尋ねた。大先生は若い頃、おフランスでお勉強なさったお方だからね。お紅茶の事を「テ」とおっしゃるだろう?ロールケーキとかいう、でっかい鳴門巻きみたいなお菓子をご馳走にならなかったかい?そのお菓子の断面をあまり見つめちゃ駄目だぜ、目が回るからね。君の事を「マドモアゼル」とか呼ばないかい?私は初対面の時、パイプの吸い口をこちらに向けられながら「ムッシュ」と呼ばれたんだぜ。そこで思わず吹き出してしまい、憮然とされたんだ。まちがっても君は笑っちゃあいけないよ。


 おじさんはね、Мちゃんは私の事を先生と呼ぶが、私は自分の事をおじさんと呼ぶ、先生と呼ばれるなんて真っ平さ、うん、おじさんは育ちも良くないし、大先生とはまったく反りが合わなかったけど、君は柔軟な気持ちを持った、賢い女の子だから大先生の好きなところを沢山見つけて、可愛がってもらうんだぜ、などというお為ごかしな事を、まるで良識ある大人のような顔を作ったまま、たっぷりと言い含め続けた。こいつ、どこまで本気なんだよというような疑い深いまなざしで、Мちゃんが私の嘘くさい顔をじっと見つめていた。


 それからМちゃんの家に行き、二年ぶりにお父さん、お母さんと一緒に酒を飲んだ。前は大人たちが酒を酌み交わしている間は、別の部屋でテレビを見ていたМちゃんも、今回は一緒に卓を囲んだ。ん?何、飲んでるの?カルピス?へえ、初恋の味は甘いのかい?そういえば、昔、カルピスはコレラ菌を退治するって言われてたんだぜ。


 酔っぱらっててきとうな法螺話を、口の端からだらしなく垂れ流し続ける私を尻目に、Мちゃんが東京での楽しい体験や、ついしでかしてしまった小さな失敗談を話し、楽しそうに笑うたびに私はほっと安心して、それから何だか少し切なくなったりもしたんだ。


 ゴールデンウィークからもう二週間以上も経つ、よし、そろそろ私がМちゃんぐらいの歳の頃、何をしていたのか書こうじゃあないか。と思ったんだが、ううううん、特に何もしてなかったぞ。ああ、何も思い出せないや。という訳でМちゃんごめん、そのうち思い出したら書くからね。あっ、そうだ、大先生とうまく付き合うこつを一つ教えてあげよう。大先生と話す時には、「おそまつくん」という漫画に出てくる「イヤミ」を思い出さない事だ。


                        2019. 5. 29.