通信20-17 引き出しがぼこっとね

 作曲家などといっても、結局は職人としての色が強い。年寄りが杖にすがるように、長い年月を掛けてようやく手に入れた技に大いに依存しながら、日々の仕事をこなしているんだ。そんな職人たちの前に、新しい仕事のやり方、例えばコンピューターを使うなどと


 上の段落を書いてから、すでに四時間ほどが経過している。その四時間、一体何をしていたかというと、うん、「コンピューターを使うなどと」の一文の最後の「と」、その文字を打ち込んだ瞬間に、ぼこっという嫌な音と共に、キーボードの位置ががくんと下がったんだ。まるで「膝かっくん」とかいう技をくらったみたいにさ。おいおい、一体どうしたんだ?


 私はいつも机の引き出しを半分開けて、その上にキーボードを乗せて作業をしている。その引き出しを支えている木材、そいつは机の天板の裏にくっついているんだが、そいつが半分ほど外れかけたのさ。何より驚いたのは、中国か香港の映画でしか聞けないような「あいやー」という間抜けな言葉が自分の口から転がり出てきた事だ。


 ともかく机の下に潜り込んでみる。うううん、どうやって修理すればいいんだろうと、その外れかけた木材を引っ張ってみると、おお、釘も、接着材も使ってないのか。よくそんな状態で数十年もの間、この無駄な物がぱんぱんに詰まった引き出しを支え続けたもんだな。しかも最近では、パソコンの作業に疲れた私が、肘をついて休んだりもしているんだ。「ううん」と唸りながら目を閉じ、しばしこの国の家具職人の素晴らしさに嘆息する。


 いやいや、嘆息なんてしている場合じゃあないぜと、慌てて引き出しを引っこ抜くと、重っ!それもそうさ、訳の分からない物がぎっしりと入っているんだ。実は私にとって掃除、片付けとは、とりあえず要らない物を自分の目の届かないところに詰め込む事だ。もちろん引き出しにも入るだけ物を入れる。それにしても、この引き出しってやつが木材で出来ていて本当に良かったと思う。もしこれがゴム製だったら、今頃は物をぱんぱんに詰め込まれ、机本体以上にでかくなっている可能性もあるからね。


 などとぶつくさ考えている間に、おっと、スタジオに入る時間だ。玄関にばらまかれたゴム草履の上にひらりと飛び乗り、そのままアパートの階段を駆け下りると、外へ一歩踏み出し朝日に照らし出された私の足元、おいおい、ゴム草履の色を見てみろよ、右は黒、左は青、慌てて三階の部屋まで駆け上がり草履を履き替える。よしと思って足を見ると、ありゃ、右は青、左は黒、だからさあ、片方だけ履き替えればいいんだよ。


 スタジオに駆け込み、バッハのコラールに頭を突っ込んだまま二時間半を過ごす。おっと、そういえば今日はコーヒーの特売日だったと、駅の向こうのスーパーマーケットまで足を延ばし、途中でパン屋のお姉さんと立ち話、ようやく家に辿り着くと、およそ四時間経過って訳さ。


 という訳で、ええと、何だっけ?そうだ、コンピューター、そいつが我々の仕事にいきなり割り込んできたんだ。大きな分岐点さ。それまで通りの仕事にしがみついたままのやつらと、人類にもたらされた新しい夢の装置に飛びついたやつと。その時点ではあまりわからなかったが、やがて明暗ははっきりとしてきた。コンピューターも使えない作曲家なんてもはや役立たずだと嗤われる時代がやって来たんだ。何といっても一つの仕事に掛かる人件費がまったく違うからね。世の中の音楽の仕事の多くを占めているもの、そいつは安っぽいやつさ。その安っぽい仕事は、なるべく安価に済ませたいというクライアントの意向に則るなら、うん、やはり人件費ってのはとことん削り取るようなもんなんだね。


 私自身はコンピューターなどと関わらなくても何とか食えていた。まだまだ人間が直接、体から捻りだす音が重宝されるような世界にいたんだ。でも、体を悪くして、一年ほど休養し、また世間に戻ってきて、年老いた新人として新しい仕事を求めるとなると、うん、やはりこれまで通りにはいかないね。


 正直に言うと、残念な世の中だと思っている。私の知り合いの某は、素晴らしい作曲の技を持っているんだが、今は毎日黙々と、西日暮里の焼き鳥屋で鶏肉を焼いている。そいつだけじゃあない、そんなやつを他に何人も知っているんだ。


                           2019. 5. 24.