通信21-5 長い旅の記憶 5

 カエルや山椒魚、水辺に棲む生物は手足に吸盤があるが、うん、こうして排水溝から這い上がる術が見つからない時には、その吸盤ってやつが羨ましく思えるね。いや、こうして胸までを正体不明の液体に漬け込んだまま(ついでに傘を刺したまま)、自分の不運を嘆いていても仕方がない。ともかくここから何とか、頭上でぽっかりと口を開けている脱出口、うん、要するに自分がさっき落っこちてきた穴だね、そいつを目指して這い上がらなきゃあならないんだ。

 

 大きく手を伸ばして、ぴょんぴょんと跳躍を繰り返すうちに、ようやく脱出口に手が掛かった。後は必死さ。体をぐねぐねとくねらせ、あのムーミン谷に生息するにょろにょろとかいうやつらみたいにさ、何とか両肘共を脱出口に乗せる事ができた。ああ、疲れた、水の中で跳躍するのはさほど難しくはないんだが、飛び上がるたびに跳ね回る正体不明の液体、その飛沫を絶対に口や目や鼻、うん、粘膜の部分に触れさせたくはなかったんだ。しかも傘は刺したままだった。傘を刺し続ける、うん、それはもはや意地さ。人間は意地を持つ事で、意思を保ち続ける事ができるんだ。

 

 まあ、ともあれ一安心して久々の娑婆の景色を眺める。両肘を地面についたまま、足先をまだ液体に浸けたまま。丁度、通り掛かったいかにも善人風の女性が、大きく目を見開いたまま、私の事を見つめていた。おいおい、大丈夫ですかの一言ぐらい言えないのかね。地下の穴倉から、ずぶ濡れになった男が傘を刺したまま現れたんだぜ。いや、こういう場合、そおっとしておくってのが本当の親切なのかもしれないね。

 

 足を引き摺るように部屋に戻った。うん、歩いているうちにだんだん足が重く、痛くなってきたんだ。どさりと荷物を放るように、畳の上に体を投げ出す。足にぴったりと張り付いたズボンを、皮膚を剥がすように脱ごうとするが、ううん、なかなか脱げないね。あっ、脛のあたりに大きな穴が開いているぞ。その穴、ズボンだけじゃなかった。そのまま私の脛にも同じようなものがぽっかりと開いていた。うへえ、脛に開いた穴から真っ白なものが覗いているね。

 

 ともかく次々に流れ出してくる血を、トイレットペーパーだの、ありったけの紙で拭い、旅行鞄の中にあった飲み残しの焼酎を喉に流し込んでふて寝したんだが、次の朝、目覚めてみると、ひどい頭痛に頭が、疼痛に体全体が包まれていた。寝袋の中にいるように、痛み袋にすっぽりと覆われていたんだ。うん、間違いない、熱があるね。それから二日ほど、熱の中で溺れるように、死にかけた金魚のように口をぱくぱくさせながら眠った。そうして三日目の朝に目を覚ますと、おお、すべてがすっきりとしているんだ。まるで季節が変わったみたいだった。ともかく体が軽いんだ。うん、何となく自分が生まれ変わって気がしてさ、馬鹿みたいに口を開けて大笑いしたんだ。

 

 

 という訳で馬鹿な記憶を辿り、そいつを文字にしてみた。何故、そんな事をしているのかだって?もちろん文体を手に入れるためさ。葛飾北斎がありとあらゆる事を絵にできると確信し、事実そうしたように、私も不器用ながらさまざまな事を、さまざまに言葉で表してみたいと思っているからだ。今は、たいして面白くもない事実を、フィクションのように大袈裟に書いてみたいと思っている。もちろんその一方でフィクションを淡々と事実のように書きたいとも思う。昨日今日の文章にしたって、ただ酔っ払いと小競り合った挙句、工場の排水溝?うん、実際に何という設備なのかは知らない、ともかく排水の溜まり場に落っこちたっていうだけの、誰もが一度は体験するような話さ。ああ、でもいざ書いてみるとやはり難しいもんだね。人様にお読みいただける文章ってのは、なかなか書けるもんじゃないね。

 

 私自身は私の事を、基本的にどこまでも間抜けで滑稽な人間だと思っている。そんな自分の馬鹿気た行動を、バスター・キートンか、マルクス兄弟みたいに描いてみたいんだが、彼らの独特の乾いた笑いには到底届かないね。うん、私の文章はどこか湿っているんだよね。まあ、ともあれこんな乾いたさわやかな季節に、いや、それはまだ梅雨入りしていない九州北部だけか、ぐっしょりした文章をお読みいただいた皆様には、お詫び、お礼、その他なんでもかんでもまとめて申し上げます。

 

                                                                                                       2019.6.25.