通信21-4 長い旅の記憶 4

 しとしとと雨まで降ってきた。私は、知らない工場の門の前に捨ててあったビニール傘を拾い、開いてみると、うん、骨が二本ほど折れている。まったく私に似合いの傘さ。おお、闇の向こうに明かりが見える。砂漠でオアシスとやらを見つけた旅人のように、速足で近づくと、うん、そいつはジュースの自動販売機か、たばこの自動販売機か、エロ本の自動販売機か、うん、当時はエロ本が自動販売機で売られていたんだ、ともかく人の体温を感じさせない物にぽつぽつと行き当たった。そんな中、あっ、酒屋があるじゃあないか。喜び勇んで酒屋の引き戸を開けた私は、たちまち後悔する事となる。

 

 奥にいた二人の工員らしい男たちは完全にこちらに背中を向け、明らかに誰かが自分たちに関わってくるのを拒んでいた。誰を拒んでいたのかって?うん、カウンターの真ん中にいる小柄の老人、そいつはどこからどう見ても質の悪い酔っ払いだった。その酔っ払いとの間に見えない壁を作るため、奥の二人はこちらに背を向けていたんだ。そこにのこのこと間抜け面をぶら下げて入っていった私は、もちろんいい絡み相手さ。

 

 老人はぐだぐだと、いや、ぐだぐだぐだだだと絡んできた。いちいち私のする事に難癖をつけてきた。新妻の箸の上げ下ろしにも、いちいち干渉してくる姑みたいに、私の酒の飲み方から、つまみの食べ方にまで。つまみ?ああ、つまみったって他愛のないもんだぜ。ここは飲み屋じゃない、酒屋の店先なんだ。角打ちってやつさ。角打ちといっても、最近はやりの立ち飲みバーとかいう格好良いもんじゃない。元々の酒の値段にほんの数十円色を付けたぐらいの安酒。つまみだってほとんど駄菓子みたいなもんだ。「よっちゃんいか」だとか、魚肉ソーセージだとか、それにぐつぐつに煮詰めたおでんでもあれば上出来ってなもんさ。

 

 普段は誰よりも温和な私だった。人様はもちろん、通り掛かったこおろぎや、バッタにまでぺこぺこと頭を下げて通り過ぎる私だ。でもその時はちょいと違った。何年も続いた、音楽業界でのどんぱち、いや、どんぱちっていう感じじゃあないね。音楽家同士の絡み合いってのは。当事者同士は顔を合わせてにこにこ、その裏ではお互い、かろうじてじわりと相手の耳に入るぐらいの距離感を持って陰口を言い合うんだ。直接、相手を罵るなんてもってのほかさ。何だか胃袋が、中国のよりよりという菓子みたいに、ねじれるような不思議なストレスが溜まってゆくんだ。

 

 ああ、悪かったよ、絡み酒の爺さん。別に殴りつけるほどの事じゃあなかったね。うん、でもさ、いい加減、私の腹の中には岩のようなストレスがたまり込んでいたんだ。それを突っついたのが爺さん、あんたさ。こんなやつ、相手にしちゃあいけないと先に店を出た私を、わざわざ追いかけてきてさ、後ろから殴りかかってきたのはあんただぜ。

 

 うん、私は刺していた傘を地面に置いて、酔っ払いに対峙した。その酔っ払いが振り回した手が、私に目に当たった瞬間、突然頭に血が上った。小柄な爺さんさ。頭を払うと、よろめいて四つん這いになった。勢いづいて止まらなくなった私は、その爺さん頭を側溝に押し込んだんだ。頭を水に突っ込まれて、ぐったりとなった爺さんが大きく痙攣を始めて、私は我に返った。それでどうしたかって?うん、逃げた。何故だか、地面に置いた傘を拾うと、その傘を畳む暇もなく逃げ出したんだ。

 

 私は飛ぶように走った・・・うん、自分ではそのつもりだったさ。でも、傍から見ればどうだったんだろうね。傘を刺したままの男が、よたよたと滑稽感をあたり一面に振り撒きながら走ってゆく、そんな間抜けな情景にしか見えなかっただろう。うん、人目なんてどうでもいいさ。ともかく私は新居に向かって、墓場の中に建つ、文化の香り漂うアパートに向かって走り続けたんだ。

 

 もうすぐ工場地区を抜ける。あの最後の工場の角を曲がれば・・・。そう思い加速した私は、一瞬自分に何が起こったのかも分からなかった。一瞬にして目の前の風景が変わったんだ。闇に中に私はいた。胸までを水に浸からせて。しかも傘を刺したまま。

 

 柵を作るなり、蓋をするなり、何か対策があるだろうよ。ああ、私は道路の脇にぱっくりと口を開けている工場の排水溝に落っこちてしまったんだ。まるで不思議の国に迷い込んだアリスみたいに。見上げると頭上に窓が・・・そこから夜空が見える。ん?この水、何だか温いね。しかも妙に粘り気がないかい。ああ、この状態で不幸中の幸いってもんがあるなら、この暗さのおかげで、この水の正体が何だか分からないって事さ。分からないという事で、私は絶望する事なく存在していられるのかも知れない。うん、ともかく今は、このぬるぬるの中から何とか抜け出さなきゃあならない。

 

                                                                                                             2019.6.24.