通信21-3 長い旅の記憶 3

 もう老呆けはとっくに始まっている。最近は記憶が随分と曖昧だ。昨日のすっとこどっこいな文章を書いた後、ふと気になって、自分の記憶がどれぐらい正確かって事にさ、うん、それで我が家の四次元ポケットさながら、そこに何が入っているのかもよく分からない押し入れに頭を突っ込み、古い地図を引っぱり出してみた。おお、やっぱり調べてみるべきだね。長い事私がそう思い込んできた地名「墓の前」、そいつは実は「墓の廻り」だった。ついでにその付近を見回してみると、ん?「エナ塚」?エナってのは多分「胞衣」の事だろうね。生まれてくる赤ん坊を包んでいた胎盤や卵膜の事さ。ああ、まさにその頃の私は「ゆりかごから墓場まで」みたいな街に住んでいたって訳だ。

 

 ほかにもご飯のお供に嬉しそうな「モモヤ」という地名や、何だか凄いね、「食満」ってのもあった。これは「けま」と読むんだ。ほかにも「大将軍」という地名がある。ううううん、一体どんなやつらが住んでいたんだろうかねえ。地図の奥付を見ると昭和62年となっている。今、どれぐらいの地名が残っているんだろうか。気になってグーグルマップで航空写真を見てみると、おお、墓場ごと無くなっているじゃあないか。墓場ってやつも引っ越しをするんだろうか。

 

 ともかくその時の私、世間知らずの青二才は、不動産屋の車の中から必死で頭に焼き付けた記憶をたよりに、とぼとぼと新居に向かった。溝川を越えると、一気に風景がカラーからモノクロームに変化したような錯覚に陥った。まったく森の中へでも迷い込んでいるってな感じだね。パンの屑をまき散らしながら森の奥へと、さ迷い歩いていくヘンゼルとグレーテルのように、私も「新しい生活への希望」ってやつをパン屑のようにまき散らしながら、新居への数少ない手がかりである墓場へと向かったんだ。ああ、せめてこの私にグレーテルでもいてくれたら。部屋に辿り着いた時には、すっかり「夢もチボーもない」男に成り果てていた。

 

 確か春は四月、桜の頃だった。日はすっかりと暮れていた。私の新居となる部屋、その墓場御殿は、墓場をえぐり込むように入り込んだところにあった。周囲を丈の高いブロック塀に囲まれたその狭苦しい敷地に、向かい合って二棟のアパート、いや、文化住宅が建っていた。随分と狭苦しい感じがした。ふと上を見上げると、その二棟は半透明のトタン屋根で覆われていたんだ。商店街のアーケードみたいなものさ。うん、この屋根が、閉塞感に拍車を掛けているって訳だ。文化住宅の入り口には、何だこれ?オブジェ?前衛彫刻でも隠してあるのか?うん、背の高い何かがビニールのシートで覆われていた。うん、後で知った事だが、そいつは改造され、煙突ほどの高さのマフラーが取り付けられているオートバイだった。私はそこに四年ほど住んだんだが、唯一の心残り、それはそのオートバイが公道を走るところを見る機会に恵まれなかったって事さ。

 

 ともかく軽い眩暈を覚えながら部屋に入った。がらんとした部屋が裸電球にぼんやりとした輪郭を浮かび上がらせている。墓場に面した硝子戸を開けてみた。おお、そこには一面の緑が。うん、別に青々とした新緑が生い茂っていたって訳じゃあないよ。墓場と我が家を遮るブロック塀、その塀の一面に緑色の苔がびっしりと生えていたんだ。

 

 ともあれまだガスも通っていない、いや、布団の一組すらないこの部屋でどうやって夜を過ごそうかと思っているうちに、空腹に気づいた。そういえば随分と前に食べたっきりだったね。ともかくこの淋しい部屋から外に出てみようか。どこかからテレビの音が漏れ聞こえてくるばかり、その夜の静けさに騙されかけていたが、あれ、時計を見るとまだ八時じゃあないか。よし、ともかくどこかで腹を満たそうと部屋を出て、ドアに鍵を掛ける私は、自分がその数時間後に血だらけになってこのドアを開く事をまだ知らない。

 

 墓のあいだの小路を表通りに向かってとぼとぼと歩く。ああ、こんな時、提灯でもぶら下げていたらきっと似合うだろうね。墓場を出て、くねくねとした細い路地を、くねくねとした心を抱えたまま歩くと表通りに出た。ああ、改めて眺めるとこの表通り、これもなかなかのもんだね。人一人いない。いや、猫の子一匹、犬の子一匹いない、だだっぴろいだけでまったく人気を感じさせない道路が水銀灯に白く光りながら、横たわるようにそこに広がっている。まるで映画のセットみたいだった。そこにあるのはすべて工場ばかりなんだ。道路が広いのは、さまざまな資材や、工業製品を運ぶトラックが出入りするためさ。

 

 ともかくそこを歩いた。どこに向かって?うん、そんな事知るもんか。ともかくここではないどこかさ。誰でもいい、いや、別に人間じゃなくってもいい。犬でも猫でもさ。ともかく温かい体温を持つもの、そいつと出会うためにそのだだっぴろい道路を歩き続けたんだ。

 

                                                                                                          2019. 6. 23.