通信21-9 子供の頃水害があった

 うん、どこからどう見ても梅雨、まさにこれぞ梅雨という、その立派な梅雨の真っただ中にいる。ああ、でも遅い梅雨入り、そいつはどうも縁起が悪い気がするね。遅い梅雨入りと豪雨、それはセットでやって来るような気がするんだ。

 

 これまで二度、水害を体験した。一度目はまだガキの頃だ。前日の雨が上がった日曜の朝、私は近所の画家に絵を習いに行く事になっていた。日曜の朝っぱらから石膏のデッサン?うへえ、そんなの真っ平だってんで、私は近くの中学校の脇を流れる川の欄干に腰掛け適当にさらさらと、まるで一筆書きみたいなデッサンをでっち上げた。うん、さぼると親父がうるさいんだ。ちょいと癇癪持ちの親父は、何か少しでも気に入らない事があると、私をサッカーボールみたいに蹴り飛ばすのさ。それでデッサンをお勉強した証拠、そいつを持ち帰らないといけないんだ。

 

 途中、ぱらぱらと小雨が降り出した。傘も持っていない私は慌ててスケッチブックをしまうと、家の方に向かって駆けだした。その小雨がたちまちざざんがざんという豪雨に変わる。家は坂の途中にあったが、その坂があっという間に川みたいになった。

 

 私が生まれ育った街は擂鉢状になっている。思い切り格好をつけて言うならば、ギリシャの円形劇場みたいになっているんだ。円形劇場のステージ部分、つまり街に中央部、そこには米軍の基地を中心とした繁華街が広がっている。私たちは毎日、劇を見るように、坂の途中にある劇場の客席のような場所から、ステージで繰り広げられる悲喜劇を眺めながら暮らしていたって訳さ。

 

 いや、別に恰好を付けて書いたからといって原稿料が生まれる訳じゃない、普通に書こう、うん、ともかくわれわれは坂だらけの変てこな街に住んでいたと、ただそれだけだ。そうさ、坂だらけの街、そいつは滅法水害ってもんに弱いんだ。お山のてっぺんに雨がざんざと降れば、蟻の巣のようにぐにゃぐにゃと伸びる山道はたちまち川みたいになってしまうんだ。

 

 家に着く頃は、いやいや、雨が降り出して、まだほんの十分ほどだぜ、私はもう膝までを水に浸からせていた。水の中から足を引っこ抜くように、私は玄関に駆け込んだ。部屋に入ると、親父は茫然とした顔で予想外の大雨を見つめている。強烈な雨が、うん、まさに落下するってな感じだね。その雨と雨の間に、さらに雨が降り込んでいる。おお、まるで突然町内に現れた大瀑布ってなもんだ。親父はもう、すっかり私の絵の事など忘れている。いい加減なデッサンを見せてみろと詰め寄られる事はないだろうと踏んだ私はいささか胸を撫で降ろした。

 

 雨脚はさらに強くなり、家の前に突然出現した急流の中を、いろいろな物が次々に流れていった。バケツだの、鍋薬缶だの、車だの、おお、凄い、あれって風呂桶じゃあないか?後にその風呂桶は、坂の一番上の曲がり角にあった坂本さんの家の物だと判明した。

 

 当時、ほとんどのご近所さんが平屋に住んでいたが、我が家は二階建てだった。いつの間にか我が家の二階にはご近所さんたちが次々と非難してきたんだ。そんな時、俄かに張り切るやつがいるもんさ。例えばうちの母親、さあってんで早速腕まくり、次々と特大握り飯を捏ね出した。

 

 自分の家は大丈夫だろかと、窓から身を乗り出してそちらの方を見つめる者。なすすべもなく天を見上げる者。おいおい、もう洪水は起こさないと、神様がノアとお約束なさったんじゃないのかい、その証拠が虹だろう。いやいや、それはキリスト教徒の話さ。われわれ南無阿弥陀仏の信徒には関係ないね。眉間に皺を寄せたまま、災害が通り過ぎるのをじっと待つ大人たち。ただただ突然現れた非日常にはしゃぎ回る子供たちと、一部の大人。うん、役立たずと呼ばれる職業不詳の大人、今の私みたいなやつ。ああ、とうとうビールなんか飲みだしたぞ。

 

 いつの間にか雨が上がり、西の方から柔らかい陽が刺してきた。水がゆっくりと引いてゆく。台所も風呂場も居間もすべてが茶色い泥に覆われている。糞尿もたっぷりと混じっている泥。うん、まだまだ便所が汲み取り式だった時代の話さ。板を使って泥を掻きだす大人たち。意味もなく奇声を上げてあたりを走り回る子供たち。夕方の光を一杯に受けた泥濘が妖しい光を放ち、その美しさに子供ながらにうっとりとした。

 

 近くを探索する。うん、これは子供の務めだね。坂を上ってゆくと、その坂の一番上、数本の道が交錯するそこ、多分、最も水の被害が大きかったであろうそこ。坂本さん一家が住んでいたその家は、数本の柱と屋根だけを残してじっと佇んでいた。坂本さんの家には私と同級生の美保ちゃんという女の子がいたんだが、あれ、美保ちゃんは?そういえばさっきまで私の家の二階にいたはずだった。坂本さん一家はどこかに引っ越して行き、それ以来美保ちゃんの姿を見た事はない。

 

 これが私の体験した一度目の水害だ。この水害からおよそ十五年後、旅先で二度目の水害に遭うのだが、それはこの災害とは比べ物にならないぐらい悲惨なもので、長崎大水害という名前で記録されているものだった。

 

                                                                                                             2019. 7. 2.