通信21-24 小さな旅に出た

 台風。ともかくそいつが私の中に胡坐を掻いていた憂鬱とかいうやつを吹き飛ばしてくれたのかどうかは知らない、ともかく私は日帰りの小さな旅に出た。昨夜、散々暴れまくった台風のせいで、大幅に運行時刻の狂った電車に乗って北に向かったんだ。雨は昼近くなって南西の方から次第に上がってきた。だが私は北に向かう。つまり雨を追いかけて薄暗い雲の下を進むってな感じで、車窓に広がる霧雨を眺めながら過ごしたんだ。

 

 小倉駅に電車が止まると急に眩暈がした。視界がプリズムのようにぎざぎざになり物が見えなくなる。うん、ここ十年ほど、極度に緊張するとそうなるんだ。ああ、やはりこの街に対するトラウマが残っているのかねえ。二年前の秋、この街で楽しく遊んでいる最中に突然意識を失くした私は、今でもその時の恐怖の記憶に縮み上がってしまう。その後、数か月、何とかそれを笑い話に押し込んでしまおうと無理矢理、馬鹿な振る舞いを続けたんだが、今その時の恐怖の記憶はさらに根深くなって自分の内側に居座っている。

 

 ともあれ終点の門司港駅で下車し、海の傍のベンチで心を落ち着かせようと蹲る。ああ、平和な午後だ。そうか、世間は連休中なんだ。楽しそうな家族連れで一杯だ。改めてここが観光地だったと気づく。それにしてもカレー屋が多いね。何か由来でもあるのかね。四人家族とすれ違う。「お昼は何にしようか?」と話し合っている両親の後ろで「もう、カレーは嫌だよ」と叫ぶ子供の声におもわず笑ってしまった。

 

 ともかく栄町という名前が皮肉に思えるほどに栄えていないアーケードを歩く。半分以上の店がシャッターを下ろしている商店街だが、ぽつぽつと開いている店といえば、本屋、金物屋、文房具屋・・・いまではどれもが大型のショッピングセンターに飲み込まれ、独立した店舗としては見掛ける事がすっかりなくなった店が立派に営業している姿に胸が切なくなる。

 

 レトロという言葉を売りにしている店はあまり好まないが、自分は歳など取ってはおらんと呟きながら、仁王立ちになっている頑固爺のような店を見ると嬉しくなる。おお、今時古本屋があるじゃないか。何という凛々しい佇まい。きちんと分類され、並べられた本からご主人の本に対する愛着がひしひしと伝わって来るね。えっ!「Hard Rock Barツェッペリン」?うん、こういう感じの何とも言えない鄙びた感じがいいね。

 

 そこから電車で二つほど戻った門司という駅で降りる。うん、今日の旅の目的は知人のコンサートを聴く事なんだ。門司という、かつては海運業で栄えた街、そこに残っている古いレンガ造りの倉庫群は、今新しい施設として再利用されている。その中の一つ、ホールとして再生されたその倉庫で知人がコンサートを開いたんだ。

 

 とてもいいホールだった。音楽専用ってな訳じゃないから、空調の音が大きすぎたり、戸外の音が入ってきたりするんだが、でも程よい残響があってとても心地良い音が流れていた。昨日の演目は、歌があってその歌に和音の伴奏が付くってな感じの音楽ではなく、対位法、つまり複数の独立した旋律が絡み合って音空間を構成してゆくという、いささか複雑ものだったが、うん、どの旋律もきちんと溶け合いながらもはっきりと聴き取る事ができて、万華鏡でも覗くような次々に起こる響きの変化を楽しむという気持ちのいいコンサートになった。

 

 ああ、それにしても門司というのは危険な街だねえ。うかうかするとそこから出られなくなりそうだ。おいおい、数年前に戸畑に行った時もそんな事を言ってなかったか。うん、でもあの時は何やら希望があって戸畑に居つきたいと思ったんだが今回は違う。希望なんて欠片もないさ。門司の街に居つきたいって言っても、もちろんそこに住む人の仲間入りをしたいなどとおこがましい事を思っている訳じゃない。そこに転がっている石のひとつだとか、ブロック塀に絡まっている一本の蔓だとか、うん、そういうものになってしまいたいんだ。だからといって、工事現場にずらりと並んでいる、あのガードレールの代わりに細長い鉄パイプを耳の間に乗せて、虚ろな笑顔を見せているウサギたちの中のひとつ、そのひとつになるのは御免だぜ。

 

                                                                                                       2019, 9. 24.