通信21-8 小雨の中 教会に出掛ける

 昨日は久々に演奏会に出掛けた。ご招待券というものをいただいたんだ。わざわざ出向いて行って聴きたいほどの音楽はないし、知り合いと顔を合わせるのも億劫だしってんで、演奏会に出掛ける事はほとんどない。こうしてご招待券をいただくと、のろのろと家を出て、そういえばこういう世界もあったんだよなあなどと、いささか顔を強張らせながら二時間ほどを演奏会場で過ごす事となる。

 

 昨日の会場は教会だった。天神という福岡で一番の繁華街から一本奥に入った、近くには江戸時代から操業しているという醤油屋の蔵元があったり、立派な古本屋や和菓子屋があったりする落ち着いた一角に最近建てられた教会だ。おお、いつの間にかパイプオルガンが設置されているじゃあないか。ふうん、教会って儲かるのかねえ。

 

 昨日はフルート吹きの大塚陽子さんが所属するグループの演奏会があったんだ。先週そのネタをレッスンしたばかりさ。レッスンの成果を見届けよってんで召集されたってな感じだね。うん、コンサートに出掛ける事とレッスンは込みになっているって訳さ。

 

 この大塚陽子さんというフルート吹き。もう、私のところに通い始めて十年をとうに過ぎているんだが、うううん、何かためになっている事があるのかねえ。私は私のレッスンなどに全く興味がないので、わざわざ通ってくる人の気持ちがわからない。そういえば大塚さんという人、なかなかダイナミックな経歴を持つお方なんだ。若い頃はハンブルグのオーケストラに所属しながら、地元の音楽学校で教鞭をとっていたという事。多分、ベルリンの壁が壊れたあたりの頃の事だと思うが、彼女が所属していたオーケストラは旧東ドイツにあったらしく、話に聞く旧東ドイツの混乱ぶりがなかなかに面白い。

 

 その後、帰国してから交通事故にあったらしい。顔から血をたらたらと滴らせながら、病院の待合室で二時間ほど待たされた事を怒っていたが、うん、なかなか凄みのある情景だね。うちに通ってくるようになったのはその後で、若干口元にマヒが残っていたらしく、季節の変わり目になると、息もれの音が聴こえてくるんだ。ああ、その音には痛ましさを感じたね。

 

 そんな彼女と、今回はセバスチャン・バッハの御子息、エマニエル・バッハの作品を勉強した。過渡期の作曲家さ。ちょいと不思議な音を並べる御人だ。ちなみに私の中の三大エマニエルの一人がこのエマニエル・バッハだ。後の二人はというと、もちろん「夫人」と「坊や」だね。

 

 うん、いい演奏だった。そこに書かれた音の流れに逆らう事なく自然に音楽が進んでゆく、それが何よりさ。音には音のルールがあるんだ。音楽ってのは情緒的な力学なんだ。音は力学によって自ら進むべきところに進んでゆく。人間の勝手な都合、単なる思い付きや、好み、ナルシズムなどでそいつを捻じ曲げる訳にはいかない。「解釈」などという都合のいい言葉で、音のあるべき姿を歪めた音楽を耳にするたび、ああ、心の底から落胆してしまう。

 

 そういえば去年もこのグループの演奏会に出向いたんだった。そうだ、素晴らしいヴァイオリンを弾くお姉さんの音を聴いたんだ。ブラームスのヴァイオリンソナタ、それで去年は夏の間、ブラームスについていさささか真面目にお勉強したっけ。うん、あのソナタの演奏は強烈な印象として心に残っているが、ああ残念、プログラムを見ると、今年はそのお姉さん、参加されていないみたいだね。

 

 教会に入る直前にはいささか強い雨が降った。うん、雨を避けようと教会にばたばたと駆けこんだんだが、その雨もすっかりと上がり、そういえば演奏会の途中で、窓の外がふわりと明るくなって、パイプオルガンの横板が柔らかい日差しを跳ね返していたじゃないか、ともあれ足元から蒸し上げるような熱気が立ち昇ってくる中をとぼとぼと歩いて帰宅したんだ。

 

 道々、胃袋に詰まった餌を、もう一度口に戻してかみ砕く牛みたいに、今しがた聴いたばかりの演奏会を反芻しながらさ。うん、実はようやくエマニエル・バッハの事が分かりかけてきた気がしたんだ。面白いもんでね、音楽ってのはいくら真面目に譜面を読み込んで勉強しても駄目なんだ。演奏会という一度きりの出会いとして、その場で切った張ったの末、ようやく理解できるというもんなんだ。そういえば最近は滅多に演奏家に出掛ける事のなくなった私は、うん、もう音楽を理解する事を諦めてしまっているのかもしれないね。

 

                                                                                                   2019. 6. 30.