通信20-7 三階のベランダまで綿毛が飛んできた

 

 窓も網戸を開けっ放しのまま、ベランダに出て干した布団を叩いた。おお、凄い埃だ。視界が曇るじゃあないか。光化学スモッグも、PM2.5もかくやってな感じだね。と、ふらふらと力のない虫が飛んできたぞ。何だ?この真っ白い虫は。情けない飛び方をしやがって。いやいや、よく見ろよ、虫なんかじゃあない。こいつは、そうさ綿毛だ。たんぽぽだか何だか知らないが、ともかく新しい季節が来た事をこの半ボケ爺に知らせに来てくれたんだ。

 

 突然、胸がいっぱいになったのは、うん、映画の一場面を思い出したからだ。フェリーニの「アマルコルド」。空一面を飛び交う綿花が、嬉しい春の到来を告げる。震えがくるほど美しいシーンだ。そうして、フェリーニ自身の生まれ故郷であるリミニの街に起こる様々なすったもんだを描いた挙句、最後には季節が一回り、再び飛び交う綿花に空が覆われ映画は終わる。

 

 ああ、もう駄目だね。部屋に籠って、かりかりと原稿なんか書いている場合じゃないぜってんで、布団叩きもそこそこに外へと飛び出す。まるで部屋と外が直接に繋がっているんじゃあないかと思えるようなこの季節、ああ、玄関の扉がのび太君御用達の便利グッズ「どこでもドアー」に見えるじゃあないか。靴下を履く必要がなくなったってのも、外が近くなった理由の一つさ。靴下、ああ、あのへんてこな袋の中に足を突っ込むのには、いささか勇気が必要なんだ。靴下など必要ないこの季節、私は愛馬「あお」に飛び乗る頓馬天狗のように、ひらりとゴム草履に飛び乗り、外へと飛び出すんだ。

 

 街を歩きながら、新曲の事を考える。正しい音だけを書きたい。歳を重ねるにつれ、その思いが次第に強くなってゆく。古代ギリシャの人々が秩序を学んだように、私も曲を書く事で何かしらの法則を学びたい。まあ、多分、古代ギリシャ人にとっての音楽は、われわれが考えるようなものではなく、音の共鳴のようなものだと推測するんだが。その時代のギリシャでは、音楽はどちらかというと数学の一ジャンルのように捉えられていたんじゃないだろうか。彼らが学んだ自由七科のうちの理数系の四科、算術、幾何、天文、それに並べられていたのが音楽さ。

 

 一方、無秩序の音楽、プラトンの書物をはじめ、様々な本に書きあらわされている音楽。アテナの女神がアウロスによって表現させたと言われる情動の音楽。ディオニソスの祭りの激しい馬鹿騒ぎっぷりの描写、ああ、でも私のような下衆な人間はそいつに大いに惹かれるんだ。

 

 もちろんすべてが想像の範疇でしかないんだが、例えばニーノ・ロータ、彼がフェリーニの映像につけた音響には強い刺激を受ける。優れた映画音楽の作曲家として知られるロータは、実は音楽大学の学長を務めるようなアカデミックな存在でもあった。彼は、当時の楽器を復元し、そこから推測できる音階に基づき作曲したと言われている。その点は、例えば「サチュリコン」のような作品に顕著だろう。

 

 音楽の歴史を正確に辿る事は不可能だ。だが、たとえそれが妄想だと批判されようともいいさ、歴史に対する想像力が新たな音楽を作り出すという事は素晴らしい事だと思っている。

 

 地下鉄に乗る当てもないんだが、ふらりと駅に向かった。あれ?改札から出てきたのは、うちの甥っ子と一緒にどこぞの楽団でチューバを吹いておられるḾさんではないだろうか。そういえば最近は、うちのおどろおどろしいコンサートやライブに、甥っ子が友人である若い人たちを連れてきてくれるんだが、その一人がḾさんだ。ステージから見てるとさ、うん、何だか良い感じに思えるんだよね。何だかその若い人たち、凄く純粋で邪気のないような感じがして思わず胸が熱くなる。何となく子供向けのアニメに出てくる動物たちのような可愛らしさがあるんだ。しまじろうと仲間たちってな感じだね。それにしてもうちの甥っ子、融通の利かない偏屈者で、そうだね、NHKのキャラクター、ドーモ君みたいなやつなんだ。色々とご迷惑でしょうが、何卒よろしく御願い奉ります。

 

                           2019. 5. 13.