通信20-9 アパート、その楽しげな小宇宙

 あんなこといいな、できたらいいな・・・、日々、妄想中に頭を突っ込んで生きている私は、何故か自分に都合の良い事ばかり考えている。特に新しい商品を購入する際には、勝手に様々な機能を思い浮かべて、当然その機能が付いているものと決めつけて買う。そして改めて包み紙を開き、商品とじっくり向き合いながら、自分の希望が単に妄想だったと知り、いなかっぺ大将こと風大左衛門のように振り子のような大粒の涙を流す事となる。

 

 ああ、ドラえもんさえ居てくれたら。ねえ、ドラえもん、譜面データをピアノロールデータに移し替える道具を出してよ・・・、ん?そもそもピアノロールってデータなんだっけ?


 ともかく、この数週間ほどDTM、つまりコンピューターによる音楽作成に没頭している。音楽作成?いやいや、まだそのずっと手前、作成の準備に取り掛かっているってなところだ。そもそもデジタル信号とはいったい何物だ、というところから始まって、今、ようやく機材の使用法を一つ一つ確認し始めた。


 一枚の版画を作るのに絵師は、板に絵を彫り付ける彫り師、その彫られた板に顔料を塗り、紙へと定着させる摺師、彼らとの共同作業を免れる事ができない。いずれの仕事も非常に高度な職人芸を必要とする。つまり一枚の版画を作るためにはうるさいやつらが勢揃いするってな訳さ。晩年の葛飾北斎が、版画という表現を捨て、ひたすら肉筆画にのめり込む。ああ、本当に清々した事だろうね。それ以降の北斎の自由さには目が眩む思いがする。


 その北斎が版画を捨てるのは七十歳あたりか、それぐらいのキャリアを経た後に、独りの世界にのめり込むってのは大切な事だと思う。最近はほとんどの作業が一台のパソコンで可能になり、うん、その結果だろうね、あまりに独りよがりな作品が街中に溢れている。他者の視点が入らないような制作過程は非常に危険だ。他者の視点、そいつを手に入れるためには多くの時間が必要なんだ。他人とぶつかり合ってできるたんこぶこそが制作者の誇りってなもんだ。


 私自身はもう、時間が残っていない。背後から演奏者の肩を揉みながら、お願いしますよ、うえっへっへっへ・・・などと媚びへつらっている時間は、もう私にはないんだ。残念だ。実はパソコンで作った音楽を、私は内心小馬鹿にしている。パソコンで作った音源など、所詮は食堂の前のショーケースに並んだ、蝋細工の食べ物の見本ぐらいにしか思っていない。でも、その蝋細工作りにすべてを掛けて、生き生きと過ごしている職人が存在するのも事実だ。後どれぐらいだろうか、ともかく残った僅かな時間を、五円玉か一円玉か、買い物を済ませた後のお釣りのようなささやかな時間を、人間に頭を下げて過ごすのか、パソコンに寄り添って過ごすのか、私は単にパソコンを選んだ。それだけの事さ。


 私の部屋の窓から駐車場と、家を一軒挟んだその向こうに、アパートが並んで建っている。その中の一部屋、いつもベランダに緩い大きなドレスだか、ワンピースだかを広げて干している部屋があるんだ。夕方、ふと外の景色を見ていると、何気なくその部屋に目が留まった。陽気のせいか窓を大きく開け放っている。その開け放った窓の中、髪の長い女性が踊っているじゃあないか。おお、凄い。ダイナミックながらも、柔らかく、狭い部屋の空間をフルに使い、器用に踊っているんだ。


 うううん、私には到底無理だね。自分の部屋をぐるりと見回して、そこで踊っている自分を想像してみる。右手が机の上に積んである本を薙ぎ払い、左手はぶら下がった洗濯物を弾き飛ばし、どたどたとステップを踏む足は、転がっている焼酎の瓶に絡め取られ、よたよたよたたと歌舞伎役者のようにたたらを踏み、そのまま台所までよろめいて食器棚に激突、がらがらがっしゃんと激しい音を立て、砕け散る皿や茶わん、尻餅をついた私の頭の上には、ドリフターズのコントよろしく落ちてきた鍋がすっぽり・・・、ああ、考えるだけでも身震いがするじゃあないか。それにしてもあのお姉さん、ダンサーだったって訳だね。するってえとあのドレスだか、ワンピースだかはステージ衣装なのか。


 ちなみにその女性の斜め下の部屋には、東南アジア系の人々が住んでいる。人々?うん、実はその部屋、一体何人の人間が住んでいるのかよく分からないんだ。私の部屋に遊びに初めて遊びに来た人は皆、玄関に散らばったゴム草履を見て、この部屋、何人で住んでいるのかよく分からないねと笑うが、いやいや、あちらさんは本物だぜ。多分ワンルームぐらいだと思うが、驚くほどの人影が犇めいているんだ。ああ、ともかくアパートってのは面白いね。

 

  
                          2019. 5. 15.