通信29-4 アウグスティヌスはミサの音楽を聴いて涙を流したとさ

 キリスト教が中世の音楽に及ぼした影響は限りなく深い。いや、というよりも中世の音楽史を語る事は、ほぼ教会の音楽の歴史を語る事になる。もちろんヨーロッパ全体を大きく見回すと、すべての音楽の中で教会の音楽が占める割合など僅かなものだろう。しかし、いかんせん教会の音楽、それ以外の資料がほとんど存在していないというのが悲しい現実だ。教会の外に数多存在し続けた民衆の音楽、それを教会音楽からの照り返し、後は直接音楽を表すわけではないさまざまな描写から辿っていかなければならない。これが学術論文なら気が遠くなるほどしんどい作業さ。だが与太話を書き並べるだけの個人ブログ、うん、なかなか楽しい気分で取り組めそうだね。

 

 キリスト教ローマ帝国で公認宗教とされるのがほぼ西暦300年、急速にその教えはローマ帝国内に広がってゆく。初期の教会におけるミサ曲とはどういうものだったのだろうか。聖歌、それは聖書の朗読に付けられた抑揚が次第に変化していったものだと言われている。いわゆるその朗唱が、旋律と呼びうるものに変化するのにどれぐらいの時間を要したのだろう。

 

 残念ながらその事を知る資料は存在しないのだが、4世紀から5世紀にかけて活躍した教父アウグスティヌスは、その著書でとても興味深い「告白」をしている。彼はある教会で初めて聴いた聖歌の美しさに涙を零してしまったのだと。そして彼はさらに告白を続ける。もしその涙が歌詞の内容から生まれたものではなく、単に歌の美しさから零れたものならば、自分は罰せられるべきであろうと。ううううん、この時すでに美しいと思える旋律が存在していたのか、いや、それよりも興味を引くのは、アウグスティヌスが歌詞と旋律を別のものとして捉えていた事だ。旋律と歌詞の分裂。こうして音楽は、教会からも大きく抑圧を受ける事になる。例えば教会内で楽器の使用が制限されていた事なども一つの例と言えるだろう。

 

 西暦500年には前回も触れたポエティウスが古代ローマの音楽思想を伝える「音楽教程」を著す。ポエティウスはプラトンの研究者で、「音楽教程」の内容の多くはプラトンの思想の紹介で占められている。西暦500年の後半には、かのグレゴリウス一世が教会の楽長を養成するためのスコラ・カントルムを設立。グレゴリウス一世、かのグレゴリオ聖歌を成立させたといわれたが、残念、それは間違いだ。その事については後日触れる。ともあれこうして中世という新しい時代への準備が整ってゆく。中世、宗教の時代とも暗黒の時代とも呼ばれる我々現代人にとっては何とも解釈が難しい時代。さて、この中世をどう読み解いていけばいいのか。

 

 20世紀に活躍したオランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガー、彼は中世の人間が今の我々からは想像もつかないほどに、物事について感じやすく、極端な反応を示していたと記している。要するに人間性が我々とは大きく違っているんだ。その事を最初に考慮しないと歴史を読み違えてしまう事になるだろう。歴史を学ぶ上で我々に与えられるのは一つ一つの事象、それは一つの点にしか過ぎない。その点を繋ぎ合わせた線を描き、さらにそれを面へと広げる。その作業を可能にする想像力、さあ、頭を柔らかく、ぐにゃぐにゃにしてさ、うん、この中世という時代を覗いてみたいね。