通信29-6 音楽家たちの活躍が始まりそうな気がする

 西暦1000年頃の事だ。農村部が深刻な人口増加に見舞われた。当時の農業は世襲制だ。長男以外は不要って訳さ。このまま農村に留まっていては埒が明かないってんで、次男坊、三男坊・・・は挙って都市部へと流れ込む。都会で一旗揚げようってなもんかね。そんな状態が百年近くも続くが、都市だっていつまでも田舎者を受け入れ続ける訳にはいかない。都市部の人口増加も随分深刻になってきたんだ。

 

 1100年頃になると都市の人口飽和のあおりを受けて市民権を得られない人々、つまり流人という存在が急激に増えてゆく。流人といっても別に土地から土地へと流れて行く訳ではない。市民権を持たないまま都市に住みつくんだ。これはいささか後の資料だが、流人について書かれた資料があるのでそこらから引用しておく。

 

 「放浪者の書」というこの本は、防犯の対策として1500年頃に出されたもので、それによると流人の内訳は、乞食、パン貰い、贋修道士、贋神父、遍歴学生、首切り役人、説教師、贋贖罪者(巡礼)、贋貴族、落ちぶれた商人、贋キリスト教徒とユダヤ女、芸人(軽業、踊り子、道化師、動物使い、手品師、力士、俗謡歌手と楽師、語り部)、ゴリアール(放浪学生、学僧)とある。芸人、その中の楽師、うん、ここにきて私はようやく自分のルーツに行き当たった気がする。

 

 当時、まだ音楽家という言葉は存在しない。もちろん作曲家という言葉も。今日まで名が残っている作曲家たちも当時は殆どが聖職者だ。そもそも作曲という行為は許されていなかった。何かを創作する。それは神様がなさる事だ。人間に赦されるのはせいぜい編曲ってところさ。聖歌の言葉と言葉の間に一節挿入したり(トロープス)、聖歌に別の声部を絡ませたり(オルガヌム)・・・おっと、話が高貴な方々の方に逸れかけてしまった。今、語りたいのは民衆側の音楽についてさ。

 

 最底辺、いわば賤民として存在した楽師たちの願いはというと、やはり市民権の獲得だろうね。冠婚葬祭の場で、あるいは路上で・・・さまざまなシチュエーションでそれぞれに活動していた楽師たちもしだいに結束し、やがては組合を作ろうとする。こうして「楽師兄弟社」なるものが結成された。1313年から1453年にかけては毎年フランドルで「楽師の学校」なるものが開催され、貴重な情報交換の場となる。この「楽師の学校」、ハンガリー、スペイン、イタリア、はたまた海の向こうのイングランドからも人々が集まったらしい。

 

 こうなると自然と楽師たちの仕事も形を成してくる。宮廷への就職、都市での公職、医療関係に従事する者も現れた。そうだね、次はそれぞれの仕事について触れてみたいね。