通信24-39 バロック~毒の花が開くように

 ここ数日、夏日が続いた。一体、今、われわれを覆っている季節は何なんだ。はっきりしろよなあ、なとど毒づきながらも、そうか、碌に外出もせず部屋に籠って昔の音楽についてあれこれ妄想を膨らませているだけの年寄りに、何の季節が関係あろうかと哂う。

 

 そうこうしていると近所に住むМさんから、散歩のお誘いがあった。ああ、有難いね。実は外に出たかったものの最近眩暈が酷く、歩道から車道へと、まるで鼠浄土へと転がり落ちる握り飯のよう、「おむすびころりんすっころりん」ってやつ、そんな風にあっけなく転がり出て、たまたま通り掛かった四tトラックに轢かれてぺっしゃんこ、うん、そんな様ばかりを想像していたんだが、誰か同伴者がいてくれるとまだまだ散歩だって楽しめるさと思い、はい、よろしくお願いしますと出掛けたんだ。

 

 おいおい、夏が戻って来たのかい?ならばと海へ向かって歩いた。セメントの臭いが立ち込める一角を抜けると、ほら、そこは海岸道路だ。突堤では釣り人たちが、ああ、楽しそうだね、あれ、こんなところに高架があったなんて、うん、博多湾の向こうの島々までが今日ははっきりと見えるぞ。

 

 これから映画を観に行くというМさんを映画館の前まで送り、それから一人ふらふらと、うん、まるでやじろべえさ、眩暈は本人にとっては深刻な問題だが、回りからすると何となく笑い話めいて聞こえるみたいだね、人に相談しても、どうせ酔っ払ってふらふらしているんだろうと一笑されるのが落ちさ。

 

 一人になると、また音楽の歴史にたちまち取り込まれてしまう。うん、もっと考えなくっちゃね。そもそもわれわれは無自覚に自惚れているんだ。歴史の最終地点にいるってんで、まるでそこを高みででもあるかのように感じ、そこから過去を見下ろしているんだ。おいおい、われわれだってすぐに歴史ってやつに巻き込まれ、たちまち後世の誰かに見下ろされる立場になるんだぜ。

 

 大切なのは「知らない」という事がどういう事かを知る事さ。その時代へと遡り、そこで「知らない」という状態に寄り添い、そこから「知らない」目でもって今のわれわれのいる場所を振り返るんだ。そうすると今現在の自分ってものが、そして未来のわれわれが見えるってもんさ。未来を幻視する、ああ、それこそが歴史を学ぶって事の意義じゃあないのかねえ。

 

 今、私が頭を突っ込んでいるバロックと呼ばれる時代。まさにパンドラの函の蓋でも開けてしまったんじゃあないかと思えるほどに危ない時代さ。そこから、今、私が立っているここまで、うん、一直線ってな感じだね。人間の欲に彩られた毒の花が一斉に開いたかのよう、もちろん否定的に見る事などしない、ああ、人間ってのはそんなもんさ。音楽が神の手から、貴族など支配者階級に渡り、とうとうわれわれ市民のものとなる。そうさね、わくわくするじゃあないか、もちろんそれは毒々しいわくわくだ。うん、いいさ。退屈するより百倍はましってなもんだ。

 

                                                                                                      2020. 11. 20.