通信24-36 偉い先生から励ましのお葉書をいただいた思い出

 自分の食い扶持の事を考えてだとか、そういう邪な気持ちを持つ事なく音楽と向き合えたのは確か高校の二年生までだったように思う。高校二年生の後期半年ほど、私はことごとく学校をさぼった。果たして三年生に進級できるのか、そいつは大いに怪しかったが、うん、そんな事一向に構わなかった。学校をさぼって何をしていたのかって?ああ、笑っちゃいけないよ。交響曲を書いていたんだ。交響曲?そう、そのはりぼてみたいなご立派な名前をまだまだ初心に信じていた。夜は夜でアルバイトにいかなきゃあならなかった。ラッパを吹いて、お足をいただいていたんだ。もちろんこの事は、絶対に誰にもばれちゃあいけなかった。親友にだって、好きな女の子にだってさ。退学だとか停学だとか、そんな事が怖かったのかって?いや、そんな事はどうでも良かった。ただ、何といったらいいのかねえ、ともかく人知れずやらなきゃあならない事ってのが若者にはあるのさ。

 

 ともあれ交響曲は出来上がった。どんな出来だったのかって?さあ、まったく憶えちゃあいない。うん、思い出そうったって私の記憶がそいつを引っぱり出す事を強く拒否するんだ。まったく都合のいい話さ。多分、思い出したらたちまち私は恥ずかしさで悶絶するんだろうね。

 

 その交響曲を書き上げて数か月後、私は職員室に呼び出された。実はある作曲のコンクールに秘かに応募していたその曲が賞に入ってしまったんだ。碌に学校にもこない劣等生の私と、担任教師の仲は完全に壊れていた。教師は冷ややかな声で、今日、学校にコンクール入賞の賞状が届いたが、これは学校関係の賞とは全く関係がないので、君を全校生徒の前で表彰する事はしないと言った。もちろん結構ですと私は即答した。その教師の言葉は多分、高校生の間、教師から掛けられた中で一番嬉しかったものの一つだ。全校生徒の前で表彰?ああ、冷や汗がでるね。まさに晒し者ってのはそういうのを言うんだ。誰にも知られちゃあいけない。何しろ私は毎夜毎夜、過激派が爆弾を作るような気持ちで秘かにこの交響曲を書き続けたんだ。そんな行為を、阿保面したやつらの好奇の目に晒してたまるもんか。

 

 その直後に、コンクールの審査委員長を務められた某先生からお葉書をいただいた。「君の書いた○○〇という曲はとても面白かった。これからも頑張ってください」(このブログでは交響曲などと書いているが、多分実際には別の大袈裟なタイトルがついていたと思う)他には二三の文言が並んでいたと思うが、憶えているのはこの二行だけだ。その先生はかつての華族のご出身で、世間的にも良く知られた御人だった。はあっ?華族?ひねくれ者の私はその葉書に返事を出す事もせず、机に中に放り込んだままにしていた。でもさ、うん、何なんだろうね。私は妙な気持ちになったんだ。助平心が湧き出すってのかね。東京の音楽学校に進み、作曲とやらをきちんと勉強し、プロの、つまり堅実に働く事もせず楽しく食っていけるようなそんな職業に就こうと、そう思い始めたんだ。

 

 音大を目指して真面目に頑張っていた松尾君という同級生に頼んで、受験の為のピアノや声楽のレッスンをして下さる先生を紹介して貰ってさ。さあ、俄か受験生の誕生だ。それからどうなってのかって?ああ、思い出したくもないね。音大ってのは私にとって、古く、黴臭い土蔵以外のものには思えなかった。それからばたばたとそうなって・・・ともかく数年後にはエロ映画専門の監督にスカウトされて、うん、自分らしさ全開で仕事に勤しんだって訳さ。

 

                                                                                                     2020. 11. 10.