通信24-25 「冬の日」

 随分と若い頃から事ある毎にその作品を読み返す、自分にとっては指針のような梶井基次郎という作家がいた。まだ頭の上に卵の殻を乗せたままの青臭いガキだった私は、書店の片隅で偶然その本を見つけ、たまたま開いた「冬の日」という作品がもたらす衝撃に身動きすらできなくなってしまった。

 

 どちらかと言えば静謐な作品なのかもしれないが、一つ一つの文章が内に秘めている強烈な言葉のうねりにとことん叩きのめされてしまったんだ。今、目の前で刻々と作品が出来上がっていくかのような力強さがどの文章からも溢れ出ていた。言葉と言葉がぶつかり、擦れ合い、うねり、強い共振れを引き起こす。その共振れが体の奥底で止む事のない響きとなって幼稚なガキだった私を震わせたんだ。そして数十年も経った今でも震わせ続けている。

 

 どこでもいいさ、ちょいと一部分を引用してみようか、記憶に頼って書くのでもしかしたら漢字の一文字ぐらい違っているかもしれない。その時は申し訳ない。何しろオリジナルには旧漢字が多く使われているんだ。

 

「ごんごん胡麻は老婆の蓬髪のようになってしまい、霜に美しく灼けた桜の最後の葉がなくなり、欅が風にかさかさ身を震わす毎に隠れていた風景の一部が現れて来た」

「もう暁刻の百舌鳥も来なくなった。そして或る日、屏風のように立ち並んだ欅の木へ鉛色の椋鳥が何百羽と知れず下りた頃から、段々霜は鋭くなって来た」

 

 ほうら、もうそのまま音楽じゃないか。ガキの私はこの作品を読む毎に、といってもほぼ毎日読み続けたんだが、自分の体の中に渦巻く密度の高い響きに振り回されたんだ。もちろん何度も譜面に落とそうとしたさ。でもその対位法的な響きはあまりにも複雑で、しかもまるでつま先立ちでかろうじてバランスを保っているかのように繊細で、ああ、頭の中に次々と湧き上がってくる響きを音符にする事など到底できなかった。でも、うん、今ならできそうな気がするんだ。じゃあ、何故やらないのかって?うん、やる。今日明日にもスケッチに取り掛かる積りさ。何しろ何十年も腫瘍のように私の体に貼り付いていたんだ。この響きを形にしなきゃあ安心してくたばる事もできないね。

 

 うん、実はこんな風に誰も興味を持てない、理解できない、そんな響きを追い求め続けるうちに誰とも疎遠になってしまったんだ。もちろん孤立なんて少しも怖くなかった。でもね、ほら、やっぱりさ、音楽は音にして耳から取り入れるものだよね。ただ一人の演奏家でいいんだ。水の中から這い上がったばかりの犬みたいにふるふると震える私、その震えを共振れとして共鳴してくれる演奏家と出会いたい。ああ、人様に演奏してもらうってのはそういう事だよね。ただ一人でもいい、その誰かと響きを共有したい。まだ出会ってもいない、もしかすると一生出会う事などないのかもしれないその人のために私は千の曲を書きたい。

 

                                                                                                     2020. 10. 30.