通信23-15 もうハンバーガーを食べなくてもいいんだ

 ハンバーガー屋の大きな窓、その窓から惜し気もなく降り注いでくる明るい陽射し。そのお陰でようやく校正が終わった。ほっとしている今、正直に思っているのは、うん、もうハンバーガーを食べなくても済むという事だ。数日間、毎朝、そいつを食べ続けたのだが、残念、一度も美味いと思った事がなかった。ともかくこれからは静かに、年寄らしく、家に引き籠っていればいいんだ。

 

 さて、今回の伝染病騒動で僅かな収入の道も断たれた今、毎日をどう過ごそうか。とりあえずゆっくりと片付けでもしようかね。本当に必要なものだけを残し、うん?本当に必要な物?そんなものがあるのかねえ。ともあれ両の手に抱える事ができるぐらいの荷物にまとめたいねえ。不動産屋から退去の要請がきたら、うふふと照れ笑いでもしながら、速やかに部屋を出ていけるような状態にしておきたいね。どうせならきっちりとドアノブに残った指紋も奇麗に拭き取ってさ、誰の記憶にも残らないような、そんな人になってしまいたいね。

 

 確か一昨年の夏じゃあなかったっけ。不思議な婆さんにあったのは。先月、新しく出来上がったショッピングモール、そこにまだ前の古びたスーパーマーケットが建っていた頃さ。そういえばその日、その敷地の入り口で、地面を這いまわる白い物体を見掛けた。蝉?うん、蝉の幼虫。殻を破ってでてきたばかりの蝉の幼虫が、そのショッピングモールの看板が掲げてある鉄柱を目指して、這っているところだった。

 

 しばらくその蝉を眺めてからスーパーマーケットに入ろうとしたところで、いきなり見ず知らずの婆さんに声を掛けられたんだ。「この辺りに二十四時間、開いている店はありませんか?」。二十四時間?私は婆さんの肩越しに見えるファミリーレストランを指さし、あの店ぐらいかな・・・、ちょっと離れているけど、終夜営業の餃子屋もありますが・・・などと答える私に、いや、飲食店ではなく、ともかく店の片隅で夜を過ごせそうなところがいい、などとこちらがいささか不安になりそうな台詞を呟くように言う。

 

 改めて婆さんの姿を見ると、質素ながらもきちんとした身なり、片手にはぱんぱんに膨らんだ紙袋、背中にはこれまた膨らんだリュック、もう一方の手には、あれ何と言うんだろう、手押し車?いや、押してはいないな、ごろごろと引っ張って歩くやつ、ビニール傘の取っ手がはみ出したその車を握っていた。

 

 多分、うん、この婆さん、住む家をなくしたばかりなんじゃないだろうか。何となく覚悟を決めたようなさっぱりした雰囲気が漂っていたんだ。そう思いながらも口には出さず、数軒のコンビニと交番の場所を教えた。確かお盆の中日の夜だったと思う。

 

 そういえばもう十年以上も前の事だが、当時住んでいた街で路上生活を始めたばかりの女性を見た事がある。普通に綺麗な顔をした、長い髪の、二十代後半ぐらいの人だっただろうか、最初に見掛けた時には、古いスーパーマーケットの前に置かれた車止めに腰掛け、焦点の合わない目で辺りを眺めていた。手に食パンを一斤抱えていたのが強く印象に残っている。

 

 狭い街の事、毎日のようにその女性を見掛けたが、服が黒ずみ、長い髪が油で固めたようなおどろおどろしいものに変わるのに、ほんの一週間もかからなかったように思う。何より不思議だったのは、その当時、その界隈に多くの顔見知りがいたんだが、誰に訊いてもそんな女性を見掛けた事はないと言うんだ。彼女は、いや、彼女のような人種は、人々の視線の外に存在するんだろうか。私の視線は人よりもいささか低い。もしかすると私は、その女性に自分自身の過去や未来を投影していたのかもしれないな。

 

                                                                                                           2020. 4. 15.