通信23-7 おお つげ義春さんお元気そうじゃあないか

 先日、たまたま立ち寄った古本市で花輪和一の「御伽草子」という漫画を買った。何と言うか・・・何が描いてあるのかよく分からなかったり、あまりの投げやりなおちに、描かれたやつらの底抜けな性格の悪さに、「ひでえ」などと思わず呟きながらも、げらげらと大笑いしながら楽しく読み終えた。

 

 奥付を見ると初版が1991年とあるので、およそ三十年前に作という事になるのだろうか。花輪は、作品と作者の距離が近い作家の一人だ。別にその作家の個人的なファンという訳ではなくても、その手の作家の作品に触れる事には独自の楽しさがある。

 

 この「御伽草子」ともかく激しい。作者の怨念めいたものがどこかしこのコマに溢れている。それが書かれた線の激しさに表れていたり、何個もコマをすっ飛ばしたような、急激な展開によく表れている。

 

 実はこの花輪と言う漫画家、好きで読んではいるんだが、本当に良い時期はさほど長くない、というよりはむしろ短い気がする。花輪が世間に知られる契機なったのは、映画化もされて話題になった「刑務所の中」という作品ではないだろうか。拳銃の不法所持による逮捕、服役だったが、その服役を挟んで書き続けた「天水」という作品が最も素晴らしいものだと思う。

 

 その後、「刑務所の前」という作品で、いきなり自身の事を赤裸々に描き、それまでの作中に迸り続けた怨念の正体を垣間見せてくれた。そして、それ以降の作品には不思議な穏やかさが漂い始め、うん、内容はどうでもいいさ、それ以前の作品に見られた物を書く激しい理由というようなものが希薄に感じられ、私は読むのをやめてしまった。果たして花輪は描きたいものを描き終えてしまったのだろうか。

 

 つげ義春という漫画家の事は一貫して好きだ。ある時期からは、ほとんどリアルタイムで、作品が発表されるたびに雑誌を買って読んだ。このつげも作品と作者の距離が近い作家の一人だ。つげに作品を書かせるためにわざわざ刊行された雑誌もあり、私も月々その発売日に本屋を訪れ購入した。どこまでも美しい抒情と不安が入り混じったそれらの作品は、一体抒情とは何か、不安とは何か、ともかく物事の根源までを考えるように私の弱い脳味噌に迫ってくるのだった。

 

 その雑誌に載った連作がつげの最後の作品群だ。あれから二十数年間、つげは新作を発表していない。当然その雑誌も廃刊になってしまった。最後に発表した連作は、自身の幼少期をテーマにしたもので、私は馬鹿みたいにさめざめと涙を流しながら読み続けた。同時に、長年つげが描きたかったものは、そして描けなかったものはこれだったのかと確信し、何故か、もうつげ義春が今後新作を描く事はないだろうなと漠然と思った。

 

 描き尽くすという事は、幸せな事なのだろうか。描き尽くしたなどという状態は私には想像もつかない。目が見えなくとも、心臓が胸の中で下品なツイストを踊り続けようとも、貧乏臭く五線紙にしがみ続けている。

 

 たまたま昨日、書店で手に取った「芸術新潮」の今月号に、フランスを旅したつげ親子のレポートと短いインタヴュー記事が載っていた。何やらお元気そうで、楽しそうで、ああ、とてもほっとしたんだ。

 

                                                                                                                2020. 4. 1.