通信23-1 燕尾服の記憶

 コロナ禍のお陰ですっかり暇になった某君がいきなり訪ねて来た。季節外れの夏休みってな感じで毎日すごしているらしいが、やはり生活の事が大いに気になっているのだろう、夏休みの宿題に追い詰められたガキのような憂鬱な表情が、ちらちらと会話の合間に覗き見えた。

 

 ささやかの仕事をこなし、ガキが貰うお小遣いのような小金で細々と暮らし続けている私の方も、遅ればせながらじわじわと周りの音楽家たちの影響で窮乏に向かって押し出されているが、いやいや、元々これ以上の貧乏はないだろうという生活の中で胡坐を掻いていた私の事、今更、何の騒ぎようもないってなところさ。

 

 酒を飲みながら某君と、それぞれ互いの家の中に眠っている換金できそうなものを挙げて行った。電化製品、CD、本・・・、ああ、どれも大した事ないねえ、寂しく笑う私に、あれ、君、そういえば燕尾服どうしたの?あれって結構な値段がしたんじゃない?

 

 え、え、え、燕尾服?・・・ああ、そんなもんあったっけ?もう何十年も見ていないよ。確かまだ二十代の頃、ある出来事から東京を逃げ出さなければならなかった私は、多くの荷物をそのままアパートの部屋に残し街を去った。多分、その荷物の中に混ざっていたんじゃないかと思う。燕尾服など二度と着る事はあるまいとその時思ったが、うん、その思いの通りそれ以降ほとんど着た事はない。

 

 私の頭の中で、最も滑稽な衣装の一つに燕尾服が入っている。私はそのまま街に出た時に、人様に違和感を与えるような恰好は、たとえステージの上だとしてもやりたくないと思っていたんだ。正装により顕になる日常と非日常の落差の間で、音楽が切り裂かれ・・・などと、小難しい理屈を並べ、人様を煙に巻き何とかその頓珍漢な格好、うん、似合うやつはいいさ、私が燕尾服を着るとたちまち街のサンドイッチマンみたいになってしまう、「ロイド眼鏡に燕尾服ぅぅぅ~」てなやつ、ともかくその恰好から逃れようとしていたんだ。そもそも着替えるのが面倒臭いしね。一度、関西の仕事で、マネージャーからどうしても燕尾服を着て欲しいと迫られた時には、新世界の古着屋で、時代劇で使う着流しや、派手な襦袢に混じって吊り下げられていた一着五百円の燕尾服を買ってきた事があったが、うん、客席から見るとかろうじて燕尾服に見えるその代物は、目の前にいる弦楽器奏者たちが必死で笑いを堪えなければならないような酷いものだった。ちなみに古着屋の親父は「ついでにこのシルクハット、三百円でおまけにつけたるでえ」と言ったが、私は丁寧に辞した。

 

 ところで君は燕尾服、持ってるの?こんどは私の方から某君に尋ねてみた。何度も質屋と自分の手元を行き来したその仕事着は、もうぼろぼろで到底換金できるようなもんじゃないと、これまた寂し気に笑う。あれ!ちょっと待てよ、そういえば君、〇百万ぐらいするヴァイオリンを持ってたんじゃなかったっけ。うん、そいつを売り飛ばせばいいじゃあないか。それで生活にゆとりができたら、私を温泉にでも連れて行ってくれないかい?

 

 ・・・まあ、いくら馬鹿話に気を紛らわせようとしても気持ちはすり減るばかりだね。お互いに無事、コロナ禍を乗り切ったらまた飲もうじゃあないか。うん、今の君は随分とやつれているぜ。私?私は昼間、初めてハンバーグランチというものを御馳走になって、とても暖かい気持ちで過ごしているんだ。

 

                                                                                                              2020. 3. 21.