通信22-21 懐かしい音に足を止める

 日曜日の夜のスタジオは概ね静かだ。休日の夜、翌日の出勤の憂鬱さを頭に抱えながら練習をしようなどという好き者がそう沢山いるはずもなく、まあ当たり前といえばそうなのだろうが。夜の九時を過ぎるとほとんどの部屋の明かりが消え、淋しい気持ちを抱えながら静かな廊下を歩く事になる。

 

 私もその日曜は九時半頃に生徒へのレッスン、自身の練習を終え廊下に出ると、ある部屋の前でふと足を止めた。その部屋の中から聴こえてくる音、うん、間違いない、かつての相方の音だ。さすがに十年以上も同じ釜の飯を食った相手の音だ。ただの音階練習をやっていただけだが、やはりちょっと聴いただけですぐに分かるもんだねと妙に感心した。

 

 もう十年以上も元相方の音は聴いていなかったし、もう再び聴く事のないだろうと思っていたが、ほんの数オクターブ分、鍵盤の上を指が走り回る音を耳にしただけで一瞬にしてさまざまな記憶が蘇る。その記憶はもちろん言葉ではなく何かしらの気分として一瞬にして私を十年前の私に引き戻した。ああ、やはり音ってのは凄いもんだね。音ってやつには逆らいようがないね。

 

 相方といっても、元は自分のピアノの弟子だった。誰かの伴奏としてレッスンに訪れた元相方はそのままピアノの弟子として居ついてしまった。うん、前世紀の話さ。それから数十年も経った今、元相方のいささか癖の強い音階を聴いて、自分の指導法は正しかったのだろうかという疑問が芽生えた。芽生えた?嘘を吐け。いつもその疑いに考えを絡め捕られ続けていたじゃあないか。

 

 うん、そうさ、最初に目が眩むような才能を元相方に感じた私は、ひたすらその長所ばかりに着目し、それを伸ばす事ばかりを考えていたんだ。元相方の内側に自分を置き、元相方がこれからピアノを弾いてゆく上で受け続けるであろう批判に対する備えをおろそかにしていた。ああ、やはり元相方が元々持っている強い癖を、それは私にしか分からないかもしれない、私にとってはふるいつきたくなるほどの魅力だったんだが、ある程度はその癖を中和するべきだったんじゃあないだろうか。

 

 部屋に戻り、ご近所さんであるМさんからお借りしたDVDを観る。山里の四季を静謐に、そして丁寧に描いた不思議な作品だ。このひと月ほど鬼畜のように荒れ果てていた気持ちが少しずつ落ち着いてゆくのが分かった。最後の春の章を観終わり、嫌いだった春という季節が少しだけ好きになった。うん、静かな映像っていうのも良いもんだね。「猛々しい」の反義語は「優しい」とかではなく「静謐」なんじゃないかとふと思った。ああ、このまま夜の静けさに溶けてしまえればいいんだけどね。

 

                                                                                                2019. 1. 15.